塩崎剛三
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塩崎 剛三(しおざき ごうぞう、1957年9月13日 - )は、日本の雑誌編集者。ペンネームは東府屋ファミ坊(とうふやファミぼう)。

ペンネーム「東府屋ファミ坊」の由来は、「ビデオゲーム通信」の主幹「雷門ビデ坊」(野々村文宏)にならったため、名づけた。「日本一のC調編集者」としても知られていた。
経歴

1983年(昭和58年)、早稲田大学卒業後、アスキーに入社。ログイン編集部に配属される。同誌では主に「ビデオゲーム通信」などの記事を担当した。入社前からアスキーでアルバイトをしていて、同誌の編集長である小島文隆は「アルバイト時代からプログラムもできるし原稿も書けた」[1]として塩崎を評価し、雑誌作りだけでなくゲームソフトの開発にも力を発揮する[1][2]

1986年(昭和61年)には同誌の一コーナーであった「ファミコン通信」の独立雑誌化に尽力し、同年6月に隔週誌として創刊。1987年に副編集長(1987-1989)に就任。両誌の編集長を兼任していた小島が勇退すると1989年(平成元年)に二代目編集長(1989-1992)に就任する。実際には正式な編集長就任前から小島が編集部に姿を見せることはなく、塩崎が事実上の編集長として采配を振るっていたという [3]。小島と塩崎の結束は固く、社内では「小島組」と呼ばれていた。

1991年(平成3年)のファミ通が週刊化の際には「ゲーム誌はファミコン通信でウッドボール(木毬=きまり)だな」というキャッチコピーを考えた[4]。そのことからファミ通誌面では「ウッド尊師」の名で呼ばれることもあった。

編集業務の傍ら、ゲーム開発も積極的にこなすようになる。

1983年(昭和58年)、ログイン10月号の取材記事、「スターゲームデザイナー登場」で堀井雄二と知り合い、北海道へのシナリオハンティングを経てアドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(1985年アスキー)を開発スタート[5]。以降、ログイン同年12月号以降でロケハン記事を複数回特集し、堀井雄二の新連載コラム「ゆう坊の虹色ディップスイッチ」でも、積極的にオホーツクのネタを展開、雑誌連動型ゲーム企画開発の新しい形を提示していった。

以降、堀井雄二とは「いただきストリート?私のお店によってって」(1991年)『いただきストリート2 ?ネオンサインはバラ色に?』(1994年)などでも、開発を共にする。

ボードゲームの開発にも積極的に取り組んでおり、「メタルマックス」のデザイナーである宮岡寛などとともに、「タワードリーム」(アスキー)、「天空のレストラン 」(メディアファクトリー)などの複数のボードゲームを完成させた。

1985年(昭和60年)からの攻略本ブームの先駆けとなった「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」での編集経験を活かした、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}自分が携わったゲームの攻略本を自分で編集して創り上げるという図式は、塩崎独特のものである[要出典]。

食通でも知られ[要出典]ファミ通のクロスレビュー担当時の近況コメントは毎回、食べ物に関する話であった。

競馬好きであり、1995年(平成7年)には競馬雑誌『サラブレ』の創刊に携わる[6]

アスキーではゲーム雑誌担当の取締役となっていたが[7]、子会社への融資をめぐって1996年5月に常務だった小島が辞表を提出するとこれに同調して辞表を出し、塩崎と小島は5月の取締役会で退任[7]。アスキーとは役員復帰をめぐって交渉をしたが[7][8]不調に終わり、小島が7月に設立したアクセラで同社の副社長を務めた[9][6][10]。アクセラでは「週刊TV Gamer」等の創刊に携わる。


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