塩土化 (えんどか、英語: Salting the earth, Sowing with salt)は、征服した街や土地に二度と人が住めない土地とするために塩をまく呪いの儀式[1][2]。古代近東で生まれ、中世のさまざまな民話のモチーフとなった[3]。塩分を含んだ土で育つ植物がほとんどないことを元にした儀式であるが、実際に土地が利用不可能になるほど大量の塩がまかれた例は確認されていない。 敵の都市を滅ぼし破壊したのちに、その土地を清め神に捧げるため、またはその都市を再建しようとする者を呪うために塩をまくという習慣は古代オリエントで広く行われたが、塩を用いる理由については当時の史料からはよく分かっていない。「:en:Salt in the Bible
目次
1 都市の破壊
2 反逆者の処罰
3 伝説上の塩土化
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
都市の破壊
19世紀以降[7]、多くの歴史著作で、ローマ帝国の将軍スキピオ・アエミリアヌスが紀元前146年の第三次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼした際、カルタゴ市を塩土化したという記述がみられる[8][9]。確かに当時の文献はいくつかの都市に象徴的に塩がまかれたと言及しているが、それが特にカルタゴ市であったと述べているものはない[3]。カルタゴ市滅亡の物語は、シェケムの塩土化をもとに後世に誇張されたものであるとされる[10]。
1299年、コロンナ家の反乱を鎮圧しパレストリーナを破壊した教皇ボニファティウス8世は、「アフリカのカルタゴの故事のように」パレストリーナを塩土化するよう命じ、実行した[9]。とはいえボニファティウス8世は「…余は古代のアフリカのカルタゴのようにそれ(パレストリーナ)を耕し、そこに塩を植えた。…」[11]と述べており、彼が「カルタゴは塩土化された」という認識を持っていたかどうかは断定できない。他にも中世イタリアの都市が塩土化されたという記録がいくつか存在している。例えばフン族のアッティラによるパドヴァ(452年、アッティラと古代アッシリアの混同によるものとみられる)、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によるミラノ(1162年)、フィレンツェ共和国によるセミフォンテ(英語)(1202年)などの例があるが、これらは現在ではいずれも史実とみなされていない[12]。
1370年ごろに成立した英語の叙事詩『イェルサレム包囲(英語版)』ではローマ軍司令官ティトゥスがイェルサレム神殿を塩土化したというくだりがある[13]が、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』には該当する内容は見られない。 スペインでは、反逆者が処刑されその家が取り壊されたのち、その首をパイクに刺して晒し、反逆者が所有していた土地を塩土化した。 アヴェイロ公の罪を晒した記念碑(リスボン市サンタマリア・デ・ベレン) 同様の処置はポルトガルでも見られた。1759年、ターヴォラ事件
反逆者の処罰