凡例塩冶高貞
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期
生誕不明
死没興国2年/暦応4年(1341年)3月25日から3月29日の間
別名高久?(『梅松論』上)[1]
通称:孫四郎左衛門(『梅松論』上)[1]、隠岐大夫判官[2]、塩冶判官[2]
戒名頓覚?[2]
墓所島根県出雲市神門寺[3]
官位検非違使[2]、左衛門尉[2]
建武政権:出雲国守護[4]、隠岐国守護[4][注釈 1]
北朝:隠岐守[2]、近江守[2]、従五位上(『尊卑分脈』)[5]
幕府鎌倉幕府:出雲国守護[2]
室町幕府:出雲国守護[2]、隠岐国守護[2]
主君北条高時→後醍醐天皇→足利尊氏(→後村上天皇?)
氏族塩冶氏(宇多源氏佐々木氏支流)
父母父:塩冶貞清[2]
兄弟高貞、時綱、貞泰、寂阿・宗貞・宗泰・泰綱・高顕[6]
妻早田宮真覚の娘?
子快貞、冬貞、昌光、貞道、玄貞?[7]、南条貞宗?
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塩冶 高貞(えんや たかさだ、旧字体:鹽冶 貞)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。鎌倉幕府出雲国守護、のち建武政権・室町幕府では隠岐国守護も兼任。北朝隠岐守・近江守。従五位上。家紋は花輪違[注釈 2]。 元弘の乱で後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献、建武政権にも仕えた。建武の乱では初め後醍醐天皇方だったが、やがて足利尊氏方に転じ、南北朝の内乱でも北朝・室町幕府の有力武将として力を奮った。しかし、興国2年/暦応4年(1341年)3月24日に京都を突如出奔、足利直義(尊氏の弟)から謀反の嫌疑をかけられて、桃井直常・山名時氏を主将とする追討軍の攻撃を受け、数日後、播磨国で自害した。謀反の真偽は不明だが、一説に、皇族早田宮の出身とされる妻を介して南朝と通じていたのではないかと言う。なお、軍記物『太平記』で描かれる、幕府執事の高師直との個人的確執は、史証が無い創作である。江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』の主役の一人、塩谷[注釈 3]判官[注釈 4](えんや はんがん)としても有名で、赤穂事件を起こした播磨赤穂藩藩主浅野長矩の姿を仮託された。 塩冶氏は宇多源氏の名門佐々木氏の傍流であり、バサラ大名として著名な佐々木導誉とは遠い親戚関係にある[4]。鎌倉時代から代々出雲国(現在の島根県東部)の守護を務めた家系で、高貞もまた鎌倉時代末期にその職にあった[4]。高貞の姉の覚日尼
概略
生涯
室町幕府成立まで塩冶氏の家紋:花輪違(七宝に花角)
生誕年は不明だが、鎌倉幕府第14代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間(1311年-1333年)内に元服[注釈 5]して、高時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「高」の字)を受けた[9]人物とみられる。
元弘の乱では、後醍醐天皇が幽閉先の隠岐国を脱出すると、隠岐国守護佐々木清高は帝を追って出雲国三尾の浦に上陸、同族の高貞[注釈 6]に後醍醐捕縛の協力を要請したが、既に後醍醐天皇から鎌倉幕府打倒の綸旨(命令書)を受け取っていた高貞は、清高の求めを黙殺した(『梅松論』上)[1]。