塘沽協定
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塘沽協定塘沽協定の交渉
通称・略称塘沽停戦協定
署名1933年(昭和8年)5月31日
署名場所 中華民国 塘沽(タンクー、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Tangg?:タングー)
締約国 日本
中華民国
主な内容満洲事変の停戦協定
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塘沽協定(タンクーきょうてい)は、1933年(昭和8年)5月31日に、河北省塘沽(タンクー、?音: Tangg?:タングー)において日本軍中国軍との間に締結された停戦協定である。

これにより柳条湖事件に始まる満洲事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。
背景熱河作戦までの経緯背景については「満洲事変」を参照
熱河省の位置付け熱河省の位置

熱河清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとともに満洲と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっていた[1]。この地は満洲国の建国宣言では満洲国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時、その山間地は北京を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満洲へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重要であり、またアヘン栽培による収益が当地の価値を高め、その地理上の位置が戦略的・政治的に重要なものとなっていた[1]

この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下だった[1]が、満洲国の建国宣言に署名し[2]、熱河省長に就任していた[3]。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていた[2]が、南と西からは張学良の軍事力、さらに万里の長城に迫りつつあった日本軍の軍事力の脅威の狭間にあった[1]?介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路としての東北地域の確保と見ていた[2]。 張学良はこの地から産出され、天津と北京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満洲国における工作活動資金としていた[4]
朝陽寺事件

1932年7月17日、関東軍嘱託の石本権四郎が熱河省内朝陽寺で拉致される事件が発生したため(朝陽寺事件)、第8師団は石本を奪還するため翌日同地に赴いた。関東軍では同事件をきっかけに、内地からの増援を受け、熱河省の軍事制圧を検討していたが、眞崎甚三郎参謀次長からは「性急な行動は慎むよう」指示された。事件に対し、中華民国外交部は矢野真臨時代理公使に対して「匪賊による列車強盗に対しわが軍が治安出動していたところ、日本軍より攻撃を受けた」として抗議を行ったが、日本側は「治安維持のための出動であり、日本軍に威嚇射撃などを行った中国側に非がある」と反論した[5]

日本側の報道によると石本は張瑞光に率いられた約300名の匪賊に襲撃され、不思議なことにその場からただ一人拉致されていた[6]。拉致実行者たちが遺棄した書類から彼等が7月16日に張学良からの「石本等が熱河省内朝陽において活動しつつあるから彼を捕縛せよ」との命令を受けて行動したことが判明した[7]。7月19日には熱河政府代表が日本の要求を受け入れ、石本の救出に努力する事と今後は問題を起こさない事を約束した[8]が、8月23日南京政府軍事委員会は北平分会に「日本軍よりの石本引渡し要求を拒絶すべし」と電命した[9]。石本は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉を行っており、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した[6][10]

石本は翌1933年3月18日に朝陽東方4kmの地点で遺体となって発見され、検死の結果1932年12月20日頃匪賊によって殺害されたことが判明した[11]。遺体発見1週間後の3月25日には石本の陸軍葬が行われた[12]

朝陽寺事件が長期化する一方で、?介石張学良に対し熱河に進軍し、湯玉麟を中国側に引き戻すよう圧力をかけることを要請していた[5]。張学良と中央政府との対立を発生させながら、10月に入ると、中国軍が熱河へ集結を開始した[13]。さらに日本側も12月に第6師団の増派を得て、熱河作戦の実施が迫りつつあった。?介石は12月25日、さらに中央軍6個師団の増派を進めていることを張学良に知らせている。
山海関事件

日本は義和団の乱の際に結ばれた北京議定書においてロシアを意識した要求を行い、万里の長城の東端に位置する山海関とその西南15kmにあり不凍港として重要視される秦皇島などに駐兵する権利を得ていたため、この時期の山海関には北寧鉄路南側の兵営に歩兵100人と工兵の小部隊を駐留させ砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約50人を駐屯させていた[14]

1933年1月1日午後9時20分頃、山海関南門外日本憲兵分遣所構内、同憲兵分遣所長宿舎、奉山線山海関駅日本軍鉄道看視哨所及び満洲国国境警察隊付近に手榴弾を投じ、小銃射撃を加えた者があり、日本軍守備隊は直ちに警戒配置につき、中国側とは協定を結び小康状態を保っていた[15]1月2日午前11時頃日本軍守備隊は協定に基き南門の処理に向かおうとしたが、中国軍が依然南門付近にあって不法に突如射撃を加えてきたため兒玉利雄中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出した[15]。日本側の報道によると日本軍守備隊は自衛上やむなく応戦し、午後3時30分以後山海関付近の中国軍と戦闘を開始して奉山沿線にあった関東軍の一部を増援として得た[15]。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近において反満抗日の行動に出つつある情況から、中国側官憲が日本の国際的地位を不利にするため行った計画的挑戦であることが明らかであると発表した[15]支那駐屯軍司令官中村孝太郎中将は1月2日午後11時30分北平歩兵隊長粟飯原中佐を通して張学良に対する軍司令官の警告を手交し、日本人居留民は山海関及び秦皇島とも守備隊兵営に収容し保護された[15]

1月3日、日本軍爆破隊は山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃、綏中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、11時55分日章旗を揚げた[16]。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱[15]からの艦砲射撃に加え、19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器[17]と対峙したため[18]、圧倒するに至った。日本軍はこの戦闘後も中国側内部に侵攻する動きを見せず、日本軍司令官からは停戦の申し入れがなされた[1]。一方、日本側の報道によると近くの秦皇島にいた中国軍は山海関陥落の報に逃げ腰となり中国人街一帯にわたって恣意的な徴発(略奪)を行ったため中国住民は恐慌をきたし[19]、さらに避難した日本人居留民の家屋からも一物も残さず略奪していた[16]

日本軍の山海関南門攻略に関する報道は日本側と中国側で異なっていたが、外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した[20][21]。 山海関事件について当時のロンドン・タイムズは、日本は最終的に熱河省から無法者を追い払う意図を決して隠したことはないが、この事件を中国側の挑戦によるものとする日本側の主張は現場近くに日本の軍隊がいなかったという事実と戦闘が始まった時には第二師団が釜山から日本に向けて出航していた事実によって裏付けられるとし[22]、「中国側が西欧列強の支援を得るためのものではないか」と論じた[1]


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