堺事件
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堺事件(泉州堺事件、妙国寺事件)
堺事件, ル・モンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
場所和泉国栄橋通・旭町一帯
標的フランス海軍のコルベット艦デュプレクス号の水兵と士官
日付1868年3月8日
原因フランス人水兵が町で狼藉。捕縛を逃れて隊旗を奪い逃走
攻撃手段銃撃
抜刀突撃
攻撃側人数土佐藩士: 29名
武器日本刀
鉄砲
死亡者11名
負傷者多数
関与者土佐藩六番隊
土佐藩八番隊
防御者数十名
対処駐日仏公使レオン・ロッシュの5つの要求を明治政府は受諾。
被害と同数の土佐藩士11名の切腹。
謝罪明治天皇からの謝意
土佐藩主山内豊範の謝罪
賠償15万ドル
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堺事件(さかいじけん、: Incident de Sakai)は、慶応4年2月15日(太陽暦1868年3月8日)に和泉国堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)、摂津国堺の妙国寺において処刑が行われたため、妙国寺事件(みょうこくじじけん)[1]とも呼ばれる。

慶応4年に近畿で起こった外国人殺傷事件は三度ある(神戸事件、堺事件、パークス英公使襲撃事件)が、外国側・日本側ともに最も多くの犠牲者を出した[2]
概要

攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年2月15日午後3時頃、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。この間、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわる。夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長・箕浦元章(猪之吉)、八番隊警備隊長・西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲。和泉国堺栄橋通・旭町(現・大阪府堺市堺区栄橋町・大浜北町)一帯で銃撃戦となり、土佐藩兵側が仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。遺体は16日に引き渡しを終えた。なお詳細な原因は話者ごとに食い違っており、フランス側は何もせぬのに突如銃撃を受けたと主張している。死亡した仏水兵は11名で、いずれも20代の若者であった[注 1]

シャルル・P・アンドレ・M・ギヨン(第一級見習士官、22歳)

ガブリエル・マリ・ルムール(第一級一等水兵、28歳)

ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ(機関運転手、24歳)

オーギュスト・ルイ・ランジュネ(三等水兵、22歳)

ラザル・マルク・ボベス(三等水兵、22歳)

ピエール・マリ・モデスト(二等水兵、27歳)

アルセーヌ・フロミロン・ユメ(三等水兵、23歳)

ジャン・マチュラン・ヌアール(三等水兵、22歳)

ジャック・ラヴィ(三等水兵、22歳)

(以上9名は3月8日死亡)

ヴァンサン・ブラール(三等水兵、20歳)

フランソア・デジレ・コンデット(水兵希望、23歳)

(以上2名は3月9日死亡)
経緯
土佐藩兵の行動

箕浦元章(猪之吉)率いる土佐藩六番隊は、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応4年1月9日八つ時(午後2時)にを出立、淀城に向かった。新政府軍総裁仁和寺宮彰仁親王警護の土佐藩兵先鋒と交代するためであったが、同日夜に淀城に到着した時は、仁和寺宮と警護兵は既に城を立ち大坂に向かった後だった。軍監・林茂平(亀吉)の判断で六番隊は翌10日夜明けに淀城を立ち、淀川を下って、同日夜大坂で仁和寺宮隊と合流した。この時点で仁和寺宮の警護は薩摩藩兵に代わっており、六番隊は当初の目的を失ってしまった[4]

1月11日、六番隊の新たな任務が堺町内の警護に決まった。当時の堺は大坂町奉行の支配下にあったが、1月の大坂開城で大坂町奉行は事実上崩壊し、旧堺奉行所に駐在していた同心たちも逃亡してしまっていた。六番隊は即日出発し、その日のうちに堺に入った[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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