報徳社
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公益社団法人大日本報徳社
大日本報徳社の大講堂(国指定重要文化財
創立者岡田佐平治
(初代遠江国報徳社社長
岡田良一郎(初代社長/
第2代遠江国報徳社社長)
団体種類公益社団法人
設立1875年
所在地静岡県掛川市掛川1176番地
法人番号9080405004332
起源遠江国報徳社
主要人物岡田良平(第2代社長)
一木喜コカ(第3代社長)
河井彌八(第4代社長)
戸塚九一郎(第5代社長)
榛村純一(第7代社長)
鷲山恭彦(第8代社長)
活動内容報徳思想の普及、
地域・職域の報徳社の統括
子団体各地域・各職域の報徳社
ウェブサイト大日本報徳社 - 大日本報徳社
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公益社団法人大日本報徳社(だいにっぽんほうとくしゃ、英語: Public Service Corporation Dainippon Hotokusya[1])は、二宮尊徳報徳思想を信条とする日本公益社団法人

全国の報徳社を統括している。1875年明治8年)設立の遠江国報徳社を起源とし、静岡県掛川市に本部を置く。
概要淡山翁記念報徳図書館(静岡県指定有形文化財

本社所在地は静岡県掛川市掛川1176番地。2001年からは元掛川市長の榛村純一が社長を務めていたが、2018年の死去に伴い、鷲山恭彦が第8代社長に就任した。

静岡県教育委員会所管の社団法人であり、現在は内閣総理大臣認定の公益社団法人二宮尊徳の弟子である岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源としており、「報徳思想」の普及活動などを行っている。

報徳思想とは、小田原藩家老家の財政改革や下野国桜町の農村復興運動を指揮した二宮尊徳が、自身の思想を体系化した経済学説・思想の一つである。大日本報徳社の下部組織として全国の各地域、各職域に社団法人として「報徳社」が設置されており、大日本報徳社はそれらを統括する最上位組織として位置づけられている。

皇室との縁も深く、昭和5年には昭和天皇が大日本報徳社の本社に行幸した。また、昭和13年、有栖川宮家の邸宅が宮内省から下賜されることになり、東京府東京市から大日本報徳社の本社に移築されている。詳細は「二宮尊徳」および「報徳思想」を参照
大日本報徳社建造物群
建築の経緯

大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる場所に立地しており、登記面積は4,019.81m2である[2]。経緯と時期は不明だが、廃藩置県後に岡田佐平治の子良一郎が始めた掛川農学社の所有地となり、現在大講堂のある場所には農学社学寮が建てられ、周辺にも無尽蔵舎、土蔵などが建てられた[3]。明治17年(1885年)5月、この農学社が遠江国報徳社の第3館(第1館は浜松、第2館は見付(現在の磐田市中心部))となり、農学社の演説会などが行われた[4]。明治34年(1901年9月25日、見付の第2館で行われた遠江国報徳社幹事会において、掛川の第3館に公会堂を建築することが議決された[5]。これにより公会堂が建築される[6]。明治44年(1924年)、良一郎は遠江国報徳社を全国的な組織とするため「大日本報徳社」と改称[7]、本社を掛川に移す。大正13年(1924年)には全国約700社の報徳社が大合同した[6][7]。昭和初期にかけて敷地内に報徳図書館、仰徳館などが建築され、現在に至っている。

また、冀北学舎は、もともと明治10年に岡田良一郎が自邸に開いた私塾であったが、明治32年に建物がこの地に移築された。静岡県の有形文化財に指定されている。なお、岡田の開いた冀北学舎は、のちの静岡県立掛川西高等学校の源流となっている。
大講堂(遠江国報徳社公会堂)大講堂大広間

大日本報徳社の中心的な建物である[8]。明治35年1月に寄付金募集に着手し、約半年で寄付金が1万円以上に達し、同年7月1日に起工式を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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