堰
町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度36分51秒 東経139度35分44秒 / 北緯35.614144度 東経139.595547度 / 35.614144; 139.595547
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区多摩区
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口7,746 人
世帯数4,149 世帯
面積([2])
0.603666529 km²
人口密度12831.59 人/km²
設置日1988年(昭和63年)2月1日
郵便番号214-0022[3]
市外局番044(川崎MA)[4]
ナンバープレート川崎
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堰(せき)は、神奈川県川崎市多摩区の町名。住居表示実施済区域[5]。
現行行政地名は堰1丁目から堰3丁目。面積は全域の合計で60.37 haである[2]。 多摩区の東北端に位置し、多摩川に面している[6]。南端を二ヶ領用水が流れ、南北に縦断する形で東名高速道路が通過している。一帯は住宅地となっているほか、観光用の梨農園が点在する[7]。 堰は北端で多摩川を挟んで東京都世田谷区喜多見と、東端で高津区宇奈根と、南東から南端にかけて高津区久地と、西端で宿河原と接する。 開墾は1594年(文禄3年)、新座郡上保谷村(現:西東京市)から移り住んだ6家によって行われたと伝わっており、そのうちの保谷家が村の名主を代々務めた[6]。村内は全域が江戸時代を通じて天領であった[6]。開発が新しいこともあって、正保期の『武蔵田園簿』では全域が見取場とされていたが[6]、その後の『元禄郷帳』では130石あまりと正式な村高が設定され[8]、のちの『天保郷帳』や幕末の『旧高旧領取調帳』では138石余となっていた[8]。年貢以外の賦役として、1735年(享保20年)から川崎宿の加助郷を務めた[9]。これらの賦役の負担を減らすため、村では土地を狭く申告しており、そのような事情も地名に痕跡が残されている[10]。 集落は龍厳寺の周辺に形成されており、現在の堰一丁目は河原(堤外地)であった[7]。また、交通路として対岸の喜多見とを渡船が結んでいた[7]。 明治維新以降、当地は神奈川県に属し、行政上は堰村→稲田村→稲田町→川崎市と推移していった。明治以降はもと堤外地の河原も畑となったが、砂地だったこともあり桃や梨の栽培が行われた[7]。この果樹栽培は戦前に最盛期を迎えたが、戦時中には食糧増産のために伐採された[11]。 戦後には果樹栽培も復興したが、桃には連作の問題もあって衰退し、梨栽培が広がり、水田までもが梨畑へと化して、昭和40年代(1965年 - 1974年)に最盛期を迎えた[7]。一方、戦後には宅地化も進み、河原だった現在の一丁目にも、1954年(昭和29年)には一部に町内会が設置されている[7]。 1980年(昭和55年)には、多摩区内の農業集落では土淵・稲田堤に次ぐ50haの梨園があった[12]。堰は東急グループと契約し、神奈川県内の幼稚園から団体バスを受け入れていた[13]。 開拓にあたって、多摩川に堰を築いたことが由来とされるが、その堰の詳細について、現代まで残ってはいない[6]。
地理
歴史
江戸時代
明治以降
地名の由来
沿革
1594年(文禄3年)- 開墾される。
1735年(享保20年)- 川崎宿の加助郷を務める。
1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県に属する。
1874年(明治7年)- 大区小区制施行により、当地は第5大区第8小区に属する[11]。
1889年(明治22年)- 町村制施行により、稲田村が成立。堰はその大字となる。
1932年(昭和7年)- 稲田村が町制を施行し、稲田町となる。稲田町堰となる。
1938年(昭和13年)- 稲田町が川崎市に編入される。川崎市堰となる。
1961年(昭和36年)- 神奈川県立向の岡工業高等学校が開校[11]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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