堤義明
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つつみ よしあき
堤 義明
生誕 (1934-05-29) 1934年5月29日(89歳)
日本 東京府
(現:東京都
出身校早稲田大学第一商学部
職業実業家
堤康次郎西武グループ創業者)
親戚堤清二(兄)、堤猶二(弟)
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堤 義明(つつみ よしあき、1934年昭和9年〉5月29日 - )は、日本実業家西武鉄道グループの元オーナー。父は西武グループの基礎を一代で築き上げた堤康次郎。元西武百貨店会長兼旧セゾングループ(西武流通グループ)代表・小説家の堤清二(辻井喬)は兄(異母兄)。アメリカの経済誌フォーブスが発表する世界長者番付で総資産額が世界一となったこともあるが、西武グループの度重なる不祥事の責任を取って一線を退き、その後にインサイダー取引の罪で有罪判決を受けた。
経歴
生い立ち

東京の実業家の堤康次郎内縁関係にある石塚恒子の間に生まれる(未入籍)。母恒子は新潟県出身の歯科医師で衆議院議員を務めた石塚三郎の娘。康次郎にとっては三男に当たる。

麻布中学校・高等学校を経て、早稲田大学第一商学部に入学。早稲田大学観光学会というサークルを立ち上げる。なお、元西武鉄道社長(兼西武ライオンズオーナー代行)戸田博之・元プリンスホテル社長(兼西武ライオンズオーナー代行)山口弘毅・元西武ライオンズ社長小野賢二も、同サークルの二年下の後輩であり、元コクド社長三上豊(みのる)は早稲田大学空手部に所属、義明が学生時代から手掛けていたリゾート事業地の警備の手伝いをしていた。
父からのスパルタ帝王学

父のスパルタぶりは相当なもので、同じことを二度言わせると言葉より鉄拳が飛んできたという[1]

父・康次郎は「長たるものは人の三倍は働け」という訓を発しているように、毎朝四時起きで片っ端から系列企業のトップを電話で叩き起こし、その日の指示を電光石火のように浴びせていた。父が寝る九時以降は、時の総理であっても起こすことが許されなかったため、帝王学を受けていた義明は、常に旅館やホテルで父が寝る部屋に通じる電話交換台の穴にチリ紙を丸めて突っ込み、父の部屋に電話を絶対につながないように手を打っていたのだが、ある日それを忘れてしまった時の父の雷帝振りは、義明自身が「生きた心地がしなかった」と言うほどであったという[2]

大学在学中の1956年、康次郎から“冬の軽井沢に人を呼ぶ方法を考えろ”と言われ、観光学会の仲間と軽井沢スケートセンターを開設、成功を収める。また、海の近くにプールを作るという奇策と揶揄された大磯ロングビーチ1957年)も成功させる。これは、義明の卒業論文を実行に移したものである。また、スキーシーズン以外でも氷を砕けば滑走可能というアイディアから1959年狭山スキー場1961年12月には苗場国際スキー場苗場プリンスホテルを開業させる。
西武鉄道グループの後継者

1964年に康次郎が死去。周囲では「グループは次男の清二が継ぐ」と噂されていたが、三男の義明が西武企業グループを引き継いだ。清二が争い事を好まない性格だったこともあり、お家騒動には発展せず、スムーズに義明に継承された。グループオーナー就任後10年程は、ほぼ康次郎の事業をそのまま引き継ぎ、沈黙を保っていたとされる。これは康次郎の生前の言葉を守ったのだと言われる。ただし兄・清二に対する複雑な感情と配慮から、自らがいったんは相続した流通部門を改めて清二に任せ、「兄弟会」を設置してグループの秩序維持に努めた。1971年の康次郎の七回忌を機に、西武企業グループが鉄道グループ(義明)と流通グループ(清二)に分割されることとなる。ちなみに自身の媒酌人赤坂プリンスホテルに事務局を置いていた清和研創始者福田赳夫。赳夫の長男福田康夫は麻布の2年後輩で同じ早大卒で兄弟分、さらに赳夫の秘書だった小泉純一郎とも親交深かった。
西武王国
野球事業

1976年当時、横浜市の市長だった飛鳥田一雄市民球場を計画し、当時川崎球場が本拠地だった大洋ホエールズに市民球場に移ってもらう構想があったが、40億円という予算捻出に苦慮していた。それを聞いた堤義明は「西武建設に工事を一任すれば、予算は一銭もいりません」と飛鳥田に進言した。通常、球場の年間指定席は1年更改が常識だが、堤は一挙に「通用期間45年(コンクリートの耐用年数による)、一席250万円で800席で20億円、テレビ会社やスポンサーで20億円」とした。800席は1ヶ月で売り切り、スポンサーも殺到し、逆にセレクトに頭を悩ますという始末だった。飛鳥田は横浜市民に税金投入無しで立派な野球場をプレゼントできた[3]

1978年クラウンライターライオンズを買収し西武ライオンズのオーナーとなる(野球協約で複数球団の株式所有が禁じられているため横浜DeNAベイスターズの前身である大洋球団の株式を売却。飛鳥田一雄横浜市長の要請で横浜スタジアムの建設費用も西武グループが融資していた)。

西鉄後期や福岡野球中村長芳の個人オーナー企業のため、太平洋クラブクラウンライターを別途スポンサーとした)と経営者が変わっても下位が続いていたライオンズだが、西武ライオンズ以降は最新鋭かつ充実した設備の導入や、当時監督だった根本陸夫に堤義明は「全てまかせるからやってくれ」という指示を出し、実際にチームづくりは監督の専権事項とし、フロントに口を出させないなどの改革の成果から徐々に順位を上げ、1982年(昭和57年)に24年振りの日本一に輝くと、その後リーグ優勝5連覇、日本一3連覇などリーグ優勝計16回、日本一計10回に輝いた。

また、人気面でも子供が好むブルーや手塚治虫ジャングル大帝の「レオ」をチームカラーやシンボルマークに採用するなど従来のイメージを一新。レオのキャラクター商品は人気を集め、特に帽子は1979年(昭和54年)から9年間で500万個も発売されるなど、関東の子供の間では読売ジャイアンツの帽子と人気を二分するほどであった[4]。野球場の観客層も従来の男性がスポーツ新聞片手に観戦するスタイルから子供連れの家族がレジャー感覚で観戦するスタイルに大きく変わった。

サービス面でも、従来の野球場は前試合のゴミが多く残り、トイレも悪臭が座席にまで臭うほど汚かったが、義明の指示で清掃要員を大幅に増員。客席も既存他球場の座席幅45cmから西武球場では50cmと大幅に拡大するなど観客の快適性を重視、ゆったり清潔に観戦できるようにした。

 当時「不便な所沢に野球場を作っても人は集まらない」というのが世論だったが、義明は「所沢を中心に半径30kmを描くと一千万人が住んでいる。今までと違う楽しい球場を作れば必ず客は集まる」というのが彼の判断だった。結果的に上記の改革の成果で西鉄時代から凋落の一途を辿っていたライオンズの観客入場者数は、買収前には年間70万人であったが西武ライオンズ発足初年度の1979年(昭和54年)に100万人を突破し、以後チーム成績の向上とともにパ・リーグ最高入場者数を更新し続け、1988年(昭和63年)には190万人を記録するなど「黄金時代」を築き上げた。また、波及効果で西武球場周辺の西武園地区は年間一千万人が訪れる一大観光地に発展した。

選手の待遇面でも改善し、西武球場隣接地に練習施設となる西武第二球場や選手が新人時代を過ごす「若獅子寮」を建設、寮に入る選手にはアンケートを実施し、壁紙やカーテン、絨毯の色など希望通りの内装にした。1985年に入団した新人・清原和博を寵愛し、球団に対しても『清原をマスコミやスキャンダルから守れ』と厳命し、ベンチの人間に対しても清原に都合の悪い采配ぶりなら激怒したとのこと。清原のスキャンダルが週刊誌を賑わせるたびに、グループ内部の社員が怒鳴られた[5]。後に清原が数々の事件や騒動を巻き起こし、最終的には薬物使用事件まで起こす程までに清原を堕落させた要因の一つが堤の清原に対する過保護な姿勢であったともいわれている[6][7]。現場のことは球団重役の根本陸夫に任せ、基本的には介入しない主義であったが、リーグ五連覇を逃した1989年にはシーズン終了報告に訪れた当時の森祇晶監督に対しマスコミの面前で「やりたければどうぞ」と言い放ちその後も森批判を展開したため物議をかもした。森は内心忸怩たる思いであったという。また1993年(平成5年)には、球団買収後、待遇改善の代わりに「本業への専念」を理由に禁止していた選手のCM出演を「選手の一般層への知名度の向上」を理由に解禁するなど、方針転換を行っている。
ホテル事業

プリンスホテルは品川や高輪・赤坂・新宿・サンシャインシティ・新横浜・幕張・大津・札幌・広島などで次々と大型ホテルを開業させ、苗場富良野軽井沢箱根ニセコ雫石万座など西武が開発したリゾート地でも開業や増床を進めたことにより、1994年(平成6年)には2万室を超えるなど当時日本一のホテルチェーンになるまで成長した。赤坂・幕張・大津・パークタワー・横須賀は丹下健三、軽井沢・下田・六本木・函館大沼・札幌は黒川紀章、箱根・高輪・新高輪・京都宝ヶ池・横浜・三養荘(増築)は村野藤吾など一流の建築家に設計を依頼している。

特色として、景色がよい場所に立地しているホテルが多いことから、競合他社ホテルチェーンと比較して窓がとても大きく、カーテンは壁面に隠れる設計になっているが、これも堤義明の指示である。

今でこそ当たり前となっている「ホテルのディナーショー」であるが、発案者は堤義明である。1978年東京プリンスホテルに3000人収容の大宴会場「鳳凰の間」が開業する際、「空間を利用してお客の育成、開発を考えよう」という堤義明の発想により、当時、五木ひろしのラスベガス公演成功を知った堤は、ディナーショー形式でそのまま鳳凰の間に持ってきた。このディナーショーは大成功を納め、その後様々な歌手のディナーショーが開催されることになった。プリンスホテルは新高輪プリンスホテルの5000人収容の「飛天」など、多くの主宴会場(ホール)を有しており、空間を売る一つの戦略と言える。
スキー事業

冬の軽井沢に人を呼ぶ方法として人気を呼んだスケートセンターであったが、中央自動車道が完成すると、河口湖にできた富士急行のスケートセンターに押されるようになってしまった。これを教訓化した義明は、全国のスキー場適地を綿密に調べ上げた上で「ここは絶対に他人にマネされることがない」と新潟県苗場を選んだ。苗場は、スキー場では日本一の集客数を誇った。

スキー場は苗場のほか、雫石ニセコ富良野万座志賀高原妙高鰺ヶ沢などで開業するなど、1987年には33箇所になるまで成長した。合理化で大幅に減少した現在でも日本一のスキー場保有数を誇る。近代的な設備からFISアルペンスキー世界選手権大会やワールドカップでは苗場富良野志賀高原雫石が選ばれ、富良野は計8回、苗場は計3回開催されている。

ちなみに国鉄末期から運行開始されたシュプール号であるが、その前身は義明が考案した「スキートレイン」である。1982年(昭和57年)に初めに、当時の国鉄総裁・高木文雄との対談で、「上越新幹線の開通で上越線ががら空きになってしまうのではないか」という心配に対し、義明は「レールが空いているのなら売ればいい」とスキー専用列車の提案をしたところ、高木も即座に同意し、同年暮れから上野駅新宿駅から中里スキー場最寄り駅の越後中里を結ぶ「スキートレイン中里号」が走り始めた。これが好評だったことから、1986年には札幌 - 富良野(富良野スキー場最寄り駅)を結ぶ「フラノエクスプレス」が、1988年には札幌?ニセコ間の「ニセコエクスプレス」(ニセコスキー場最寄り駅)が運行を開始した。


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