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をお願いします。(2020年5月)日本の政治家堤 清六つつみ せいろく
生年月日1880年2月15日
出生地新潟県南蒲原郡三条町上町
没年月日 (1931-09-12) 1931年9月12日(51歳没)
死没地東京府東京市
出身校北米教校
前職実業家
所属政党新正倶楽部
称号勲三等瑞宝章
配偶者イト
子女堤清七
親族実弟:亘四郎(衆議院議員、新潟県知事、参議院議員)
衆議院議員
選挙区新潟県七区
当選回数2
在任期間1924年(大正13年)6月28日 - 1930年(昭和5年)1月21日
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堤 清六(つつみ せいろく、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1931年〈昭和6年〉9月12日)は、日本の実業家、衆議院議員。日魯漁業株式会社(現株式会社マルハニチロ)の創業者。実弟は新潟県知事・参議院議員を歴任した亘四郎。 堤清六は1880年2月15日 に、新潟県南蒲原郡三条町上町(現三条市)の呉服商「近清」(堤家)7代目の清七、千代の長男(第1子)として生まれた。三条町立尋常高等小学校(現三条市立三条小学校)を卒業後、北米教校に進学した。1895年 には、祖父の東京出張に同行していたが、その祖父が急死し遺骨を持ち帰ることになる。1904年 には、 日露戦争で御用商人(酒保)を志願、満州に渡る1906年、清六はアムール川下流のブロンゲ岬で平塚常次郎と出会う。平塚と北洋漁業の開拓を誓い帰国するものの、親族には反対された。呉服商近清を店じまいし、叔父・清吉、親族の小出勇助、三条出身の海産物商・田代三吉らの賛同を得て11月3日に清吉宅(新潟市東堀前通)の軒先に「堤商會」を創立した。1907年 には 、ブリガンティン式帆船・寳壽丸を購入した。同年6月4日にカムチャツカ半島・ウスカム川 堤の生家はのちに三条市に寄付され、三条市は跡地を勤労青少年ホームとして使用した。 勤労青少年ホームが老朽化により移転し、生家の一部を移転改築し「蒼龍庵」、「堤邸広場」として整備。広場には勤労青少年ホーム前に建っていた堤の胸像が建立されている。 堤清六
来歴・人物
栄典
1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[1]
堤邸広場・蒼龍庵
堤家
牧田利平編 『名家系譜 越佐人物誌』 野島出版、1986年、141-142頁 に基づき作成した。
清七[2]
イト[3]
詔子
シン[4]
堤清吾[5]
堤清七(6代目) 堤清七(7代目) ヨシ(芳子)[6]
千鶴子(養女)
千代 平塚常次郎
清治郎[7]
ムツ
堤(亘)四郎
ハル[8]
脚注^ 『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
^ 1899年6月19日 - 1978年10月5日。北海製罐会長、ブローノックスジャパン監査役、東洋製罐会長を歴任した。
^ 1889年9月 - (不明)、小出嘉七の三女。
^ 加藤家に嫁ぐ。
^ 1886年 - 1958年3月14日。中越自動車を設立、大昭和物産社長、日本相撲協会最高顧問を歴任した。