堤清二
[Wikipedia|▼Menu]

堤 清二 / 辻井 喬
(つつみ せいじ / つじい たかし)
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真
ペンネーム辻井 喬(つじい たかし)
横瀬 郁夫(よこせ いくお)
藤村 渉(ふじむら わたる)
誕生堤 清二(つつみ せいじ)
(1927-03-30) 1927年3月30日
死没 (2013-11-25) 2013年11月25日(86歳没)
墓地鎌倉霊園
職業実業家小説家詩人
言語日本語
国籍 日本
教育博士(経済学)中央大学・1996年)
最終学歴東京大学経済学部
ジャンル小説随筆
代表作『いつもと同じ春』(1983年)
『虹の岬』(1994年)
『風の生涯』(2000年)
『父の肖像』(2004年)
『鷲がいて』(2006年、詩集)
主な受賞歴室生犀星詩人賞(1961年)
平林たい子賞(1984年)
高見順賞(1993年)
谷崎潤一郎賞(1994年)
親鸞賞(2000年)
藤村記念歴程賞(2000年)
芸術選奨(2001年)
野間文芸賞(2004年)
日本芸術院賞恩賜賞(2006年)
現代詩花椿賞(2006年)
読売文学賞(2007年)
現代詩人賞(2009年)
親族堤康次郎(父)
堤義明
森田重郎義弟
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

堤 清二(つつみ せいじ、1927年昭和2年〉3月30日 - 2013年平成25年〉11月25日)は、日本の実業家小説家詩人筆名は辻井 喬(つじい たかし)。学位は博士(経済学)中央大学1996年)。日本芸術院会員、財団法人セゾン文化財団理事長、社団法人日本文藝家協会副理事長、社団法人日本ペンクラブ理事、『歴程』同人、憲法再生フォーラム共同代表、日本中国文化交流協会会長。西武鉄道取締役、京浜急行電鉄社外取締役、西武流通グループ(後のセゾングループ)代表などを歴任した。異母弟は西武鉄道グループ元オーナーの堤義明
経歴
生い立ち

1927年西武グループの創業者堤康次郎と、康次郎の(後に本妻)・青山操の間に生まれる[注釈 1]。青山は当時康次郎と内縁関係にあったが(のち入籍)、康次郎は5人の女性との間に5男2女を持つ。このことは父への反抗につながり、日本共産党入党や文学への傾倒へのきっかけとなっていく。また「父との確執と、父への理解」は、「小説家・辻井喬」を貫くテーマともなっている。

国立学園小学校、東京府立第十中学校(現・東京都立西高等学校)を経て旧制成城高等学校(現・成城大学)に進学すると、寺内大吉に兄事し、後に「近代説話」の同人となる。東京大学経済学部入学直後、同級生だった氏家齊一郎などから勧誘を受け日本共産党に入党。横瀬郁夫のペンネームで積極的な活動を行っていた。

戦時学徒動員厚木飛行場の建設作業に従事した後[1]、帝都防衛隊に編入され、四谷消防署の参謀となり[1]東京大空襲での消火活動を行う[1]

1950年、内外の混乱により共産党が所感派国際派へと分裂する中、国際派の東大細胞に属し、党中央から除名される[注釈 2]。この頃、自ら父に勘当を願い出ているが、それは康次郎に対する清二の「絶縁宣言」というべきものだった。
西武取締役兼作家

1951年東京大学経済学部卒業。その後、肺結核の療養を経て、衆議院議長だった父・康次郎の秘書を務める。この頃から詩を書き始める。1954年西武百貨店に入社。1955年から取締役店長として百貨店を任される一方、母体企業の西武鉄道でも取締役を務めた。同年、処女詩集『不確かな朝』を発表。1961年刊行の詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞受賞。

1964年、康次郎が死去。周囲からは清二が継承すると思われていた西武グループ総帥の座は、異母弟の堤義明が継ぐことになる。学生時代の政治活動の経歴が後継者を決める上で不利に働いたという見方もあるが、争いを好まない清二本人の性格からお家騒動には至らなかった。このような変動の下で、処女小説『彷徨の季節の中で』(1969年)は書き上げられた。

清二は、作家の三島由紀夫とも交友を持ち、三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、五十嵐九十九ドゴールの制服のデザイナー)を手配するなどの便宜を図った[2]。なお、1970年(昭和45年)11月25日の三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供した他、三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、自決後も貢献し続けた[3]

政治家にはならなかったが、父康次郎が池田勇人と仲が良かったことから[4][5][6]、池田や佐藤栄作田中角栄大平正芳ら政治家とも交流を続けた[5]。特に白洲次郎から生前「宮澤喜一総理にするのを手伝え」と言われていたため、宮澤内閣の誕生にも関わっている[5][6]角川春樹とは半世紀以上の親交を持ち[7]角川春樹事務所の顧問も務めた。

康次郎死去後に一旦相続した義明から、改めて流通部門を渡された清二は、当時阪急百貨店会長・清水雅宝塚市にある自邸に行き、清水より経営手法などを学ぶ。スーパーマーケットである西友をダイエー、イトーヨーカ堂に次ぐ業界3位に成長させた。1969年、池袋西武の隣にあった百貨店「東京丸物」(まるぶつ)を、買収したばかりの小佐野賢治から、さらに買収する形で経営を引き受け、府立十中の同級生だった増田通二を使い、パルコにリニューアルし、さらにパルコを全国に展開。ちなみに渋谷の「公園通り」の名前は、イタリア語公園を意味するパルコの名前からとったものである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:147 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef