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をお願いします。(2020年5月) 日本の政治家堤正誼つつみ まさよし
生年月日1834年12月6日
没年月日 (1921-07-19) 1921年7月19日(86歳没)
死没地 日本 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町
(現・東京都渋谷区)
前職宮内官僚
称号勲二等瑞宝章
正四位
貴族院議員
在任期間1911年7月10日 - 1916年11月22日
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堤 正誼(つつみ まさよし、1834年12月6日(天保5年11月6日)- 1921年7月19日)は、幕末の越前福井藩士、明治の宮内官僚、政治家。宮内次官、貴族院議員、男爵。位階勲等は正二位勲一等。幼名は市五郎。 福井藩士・堤甚平の長男として生まれる。安政四年、橋本左内とともに江戸に出て江戸幕府の海軍教授所である軍艦教授所で航海術を学び、その後幕末はおもに軍事関係の職についた。明治11年に明治維新後に福井藩権大参事を務める。 明治4年9月(1871年)、宮内省に移籍し侍従に就任。以後、侍従番長、宮内少丞、宮内権大丞、内匠課長、調度課長、宮内大書記官兼皇太后宮亮、出納課長、庶務課長、調度局長兼大膳亮などを歴任。 1887年9月、内匠頭となり、兼調度局長、兼御料局長官、兼閑院宮別当などを務める。1897年12月、宮内次官に就任。以後、内匠頭、宮中顧問官、兼東宮御所造営局長を歴任した。とくに内匠頭として任ぜられた期間は、明治20年から明治37年までと長期にわたり、その間に担当した作品は膨大なものであった。1900年5月、男爵を叙爵。1911年7月10日、貴族院男爵議員に選出され[1]、1916年11月22日まで在任した[2]。 1921年7月19日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町穏田の邸に於いて薨去。享年八十八。墓所は文京区の吉祥寺。
経歴
栄典
位階
1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[3]
1887年(明治20年)10月6日 - 従四位[4]
1892年(明治25年)9月26日 - 正四位[5]
勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲四等旭日小綬章[6]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
1890年(明治23年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[8]