堤康次郎
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日本政治家堤 康次郎つつみ やすじろう
1955年ごろ
生年月日1889年3月7日
出生地 日本 滋賀県愛知郡愛荘町(旧・八木荘村
没年月日 (1964-04-26) 1964年4月26日(75歳没)
死没地 日本 東京都千代田区
出身校早稲田大学政治経済学部政治学科卒業
所属政党(立憲同志会→)
立憲民政党→)
翼賛政治会→)
(無所属→)
(民政旧友会→)
新政クラブ→)
改進党→)
(新党同志会→)
自由民主党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
滋賀県大津市名誉市民
配偶者堤コト
堤文
堤操
親族長男・堤清
二男・堤清二
三男・堤義明
四男・堤康弘
五男・堤猶二
第44代 衆議院議長
在任期間1953年5月18日 - 1954年12月10日
天皇昭和天皇
衆議院議員
選挙区滋賀県全県区
当選回数6回(通算13回)
在任期間1952年10月2日 - 1964年4月26日
衆議院議員
選挙区滋賀県全県区
当選回数7回
在任期間1924年5月11日 - 1945年12月18日
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堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年明治22年〉3月7日 - 1964年昭和39年〉4月26日)は、日本実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民[1]正三位勲一等。「ピストル堤」の異名を持つ。
来歴・人物
生い立ち

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち秦荘町を経て、現・愛荘町)に農業兼仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた[注 1]。4歳で[2]父を腸チフスで失い[3]、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し滋賀県立第一中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配した[4] ことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出す。
早稲田大学へ早稲田大学政経学部政治学科在学中の堤康次郎

1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。18歳で、両親と祖父母を失い、妹と共に残された康次郎は途方に暮れ、後に当時のことを「私の失望落胆は言語を絶していた」と語っている。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して[5] 上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。早大では弁論部柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた[6]

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。

1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業[7](政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。1914年末には、大隈の民意啓蒙組織「公民同盟会」の出版業務として「公民同盟叢書」を立ちあげ、大隈や永井、後藤新平らの著書を編纂した[8]

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。失敗の連続だった当時を「毎日血尿が出る思いだった」と本人は振り返っている。結局、最後の望みを不動産事業に託し[9]、『感謝と奉仕』を生活信条とする[注 2]
実業家として

康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした[10]。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在はプリンスホテルに合併)を設立。更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収[注 3] したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園国立小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。


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