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日本の政治家堂本 暁子どうもと あきこ
2007年
生年月日 (1932-07-31) 1932年7月31日(91歳)
出生地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州
出身校東京女子大学文学部
前職テレビ局記者
所属政党(日本社会党→)
(新党さきがけ→)
(参議院クラブ→)
(無所属の会→)
無所属
称号旭日重光章[1]
公式サイト ⇒堂本あき子オフィシャルウェブサイト
公選第16・17代 千葉県知事
当選回数2回
在任期間2001年4月5日 - 2009年4月4日
参議院議員
選挙区比例区
当選回数2回
在任期間1989年7月23日 - 2001年3月8日
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堂本 暁子(どうもと あきこ、1932年(昭和7年)7月31日 - )は、日本の政治家、ジャーナリスト。
TBS勤務を経て、政界に転じ千葉県知事(民選第16・17代)、参議院議員(2期)、新党さきがけ議員団座長を歴任した。
女性初の千葉県知事であり、民選7人目、初代県令柴原和から数えて41人目の知事である。 貿易会社に勤務する父親が海外赴任となったため、アメリカ合衆国カリフォルニア州で生まれる。生後半年後に帰国、4歳で再渡米、小学校1年生を終えて再び帰国して、帰国子女を集めた啓明学園初等学校に編入[2]。同じクラスにはオノ・ヨーコがいた[3]。ところが、父親は1941年(昭和16年)に渡米し、その3ヶ月後に日米が開戦となり、直ちに日本人収容所に送られて病死してしまった[2]。 東京に残された堂本母子は、空襲で自宅を焼かれ、軽井沢の別荘に疎開したあと千葉の母方の祖父母の家に移った[2]。それから彼女の母親は、会社に勤めたあとデパートで外国人客の通訳として70歳まで働き続け、女手一つで堂本を育てた[2]。1期生として清泉女学院中学校・高等学校で学び[4]、東京女子大学文学部社会学科を卒業[2]。 就職先が見つからず大学に残って働いたあと、一時的にアメリカ大使館のラジオ部でインタビュー番組などの制作に関わった[5]。やがて、そこでの仕事ぶりが認められ、TBSから入社を誘われた。最初、ポーラ提供の『婦人ニュース』のキャスターをアルバイトで担当したが、スキーで骨折して降板させられ、外信部と契約して入社した[5]。ケネディ暗殺のニュースが飛び込んできたときは、2日間家に帰らなかったばかりか、衛星放送からの電波に取り組まねばならず、クロンカイトの解説を読んだりして、ストレート・ニュースを直接読み取り、深夜2時30分からの特別番組をつくった[5]。 東京オリンピックが近づいた昭和30年代の終わりに「カメラマンになってくれ」と言われ、晴天の霹靂だったが、すぐにカメラマンの仕事に熱心に取り組んだ[5]。当時の三脚は木製で重く、かついで走り回るのはつらい肉体労働だったが、東京オリンピックのメーン会場をヘリコプターで空撮したり、現像したものをみんなで見ながら話し合ううちに、カメラマンの仕事に興味を覚え、この仕事が面白くなってきて、2年間カメラマンとして鍛えられた[6]。 報道記者に転じてからは、最初に文部省記者クラブに配属され、当時の愛知揆一文相などに学力テスト問題を取材したりして可愛がられた[6]。その後、科学技術庁や厚生省の記者クラブを経てTBSに戻ったが、この記者クラブ時代の人脈が、あとで政治家に変わってから大いに役立ったという[6]。 TBSに戻ってからは、『おはよう・にっぽん』などにかかわり、鶏飼宏明が報道制作部長になってから、『テレポートTBS6』の30分ドキュメンタリーを担当させてもらえるよう交渉し、ミニ中継車を使って番組を制作できるようになった[6]。そんなとき、当時報道制作部にいた同僚の大友正巳から、「ベビーホテルを取り上げないか」と声をかけられた。最初の1ヵ月はベビーホテルに通い、調査の許可をもらい、週1回の放送でキャンペーンをやることになった[7]。取材は夜中が圧倒的に多く、半年くらいでくたくたになったが粘り強く取材を続け、『ベビーホテル』というドキュメント番組を制作して、人生を変える大きな転機を得た[7]。子どもを預かる施設の惨状と営利本位の業者、行政の怠慢を告発したからである[7]。働く母親を中心に大きな反響を呼び、彼女たちの後押しもあり話題を集めるようになった[7]。
来歴
TBS時代