堀 辰雄
(ほり たつお)
巻頭グラビア「作家訪問」
(『若草』1935年7月号)30歳当時[1]
誕生1904年12月28日
日本・東京府東京市麹町区麹町平河町5丁目2番地(現:東京都千代田区平河町2丁目)
死没 (1953-05-28) 1953年5月28日(48歳没)
日本・長野県北佐久郡軽井沢町
墓地 日本 多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴東京帝国大学国文科
活動期間1925年 - 1947年
ジャンル小説、随筆
文学活動新心理主義、王朝女流文学
代表作『ルウベンスの偽画』(1927年)
『聖家族』(1930年)
『美しい村』(1933年)
『風立ちぬ』(1937年)
『かげろふの日記』(1937年)
『菜穂子』(1941年)
『大和路・信濃路
堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)は、日本の小説家[2]。
それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした[3]。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した[4]。肺結核を病み、長野県軽井沢に度々療養、当地を舞台にした作品を多く残し[2]、晩年には終の住処とした。
戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しない堀の作風は、後進の世代の立原道造、中村真一郎、福永武彦、丸岡明などから支持され、彼らは堀の弟子のような存在として知られている。戦争末期からは結核の症状が悪化し、戦後はほとんど作品の発表もできず、闘病生活を送り48歳で死去した[5][2]。 1904年(明治37年)12月28日、東京府東京市麹町区麹町平河町5丁目2番地(現:東京都千代田区平河町2丁目13番)にて出生[4]。実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた[6][4]。母・西村志気は、東京の町家の娘。「辰雄」という名前は、辰年生まれにちなんで命名された[4]。浜之助には国許の広島に妻・こうがいたが病身で子がなく、辰雄は堀家の嫡男として届けられ、母・志気も堀家で同居する[6][4]。1906年(明治39年)、正妻・こうが上京することになったため、産んだ子を手放したくない志気は2歳の辰雄を連れて堀家を家出し、本所区向島小梅町(現:墨田区向島1丁目)の妹夫婦の家へ移る[6][4][2]。それからほどなく実父・浜之助は脳を患った[6]。1908年(明治41年)、辰雄4歳の時、母・志気は向島須崎町の彫金師・上條松吉(寿則と号した)に嫁いだ[4][6][7][8][9]。 辰雄の母も養父も、江戸っ子肌のさっぱりした気性であったため、子のことで一度も悶着することもなく、誰の目にも本当の親子と見られ、辰雄も養父・松吉のことを実の父親と信じ、父が死ぬ日までそれを疑ったことがなかった[6][4][10]。なお、実父の堀浜之助は、1910年(明治43年)4月に死去した[2]。その妻・こうも1914年(大正3年)に死去し、以後、浜之助の恩給は辰雄が成年に達するまで受給されることになった[4][2]。母・志気はこのお金を辰雄の学費として貯えた[11]。 1917年(大正6年)3月に牛島小学校(現:小梅小学校)卒業後、東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)へ進み、4年修了で、1921年(大正10年)4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語)へ入学[4][2]。
生涯
幼少時代
数学少年の文学開眼