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堀田 善衛
(ほった よしえ)
1954年頃
誕生1918年7月7日
日本・富山県高岡市
死没 (1998-09-05) 1998年9月5日(80歳没)
日本・神奈川県横浜市
墓地東慶寺
職業小説家
評論家
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴慶應義塾大学仏文科
活動期間1948年 - 1998年
ジャンル小説
評論
文学活動第二次戦後派
代表作『広場の孤独』(1951年)
『時間』(1953年)
『海鳴りの底から』(1960年 - 1961年)
『方丈記私記』(1970年)
『ゴヤ』(1977年)
『定家明月記私抄』(1981年 - 1988年)
主な受賞歴芥川龍之介賞(1952年)
毎日出版文化賞(1971年)
大佛次郎賞(1977年)
ロータス賞(1977年)
和辻哲郎文化賞(1994年)
朝日賞(1995年)
日本芸術院賞(1998年)
デビュー作『祖国喪失』(1948?1950)
『広場の孤独』(1951年)
配偶者堀田玲子(妻)
ウィキポータル 文学
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堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月17日[1] - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家、評論家。中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞[2]。
慶應義塾大学仏文科卒業。上海で敗戦を迎えた体験から『広場の孤独』(1951年)を発表し、芥川賞受賞。スペイン内戦から民族問題を考える国際的視野をもつ作家。代表作に『方丈記私記』(1971年)のほか、『海鳴りの底から』(1960年 - 1961年)など。
来歴・人物、母は大正年間に富山県で初めて保育所を創設した堀田くに。経済学者で慶應義塾大学商学部名誉教授の堀田一善は甥にあたる。生家は伏木港の廻船問屋であり、先祖は南北朝時代に後醍醐天皇皇子の宗良親王に随順していた公家の末裔であると、様々な著作で語っている。伏木港は当時の北前船の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた[3]。
1936年、旧制金沢第二中学校(現・石川県立金沢錦丘高等学校)から慶應義塾大学政治科予科に進学[1]。1940年、文学部仏文科に移り[1]、卒業。大学時代は詩を書き、雑誌『批評』で活躍、その方面で知られるようになる。
第二次世界大戦末期の1945年3月に国際文化振興会が中国に置いていた上海資料室に赴任。現地で敗戦を迎える。1945年8月に現地日本語雑誌『新大陸』にエッセイ「上海・南京」を発表。敗戦直後、上海現地の日文新聞『改造日報』に評論「希望について」を発表。同年12月に上海昆山路128号にあった中国国民党中央宣伝部対日文化工作委員会に留用され、現地日本語雑誌『新生』の編集と、現地中国語紙『中央日報』の対日輿論の翻訳を担当。1946年6月に現地日本語雑誌『改造評論』に「反省と希望」を発表。翌年12月まで留用生活を送る。12月28日(29日の夜明け)にアメリカ軍の上陸用舟艇で引き揚げ。上海での生活と留用体験について、陳童君『堀田善衛の敗戦後文学論?「中国」表象と戦後日本』(鼎書房、2017年)参照。また『新生』は中国国家図書館とアメリカ議会図書館に現存している[4]。
1947年、世界日報社に勤めるが、会社は1948年末に解散する。この頃は詩作や翻訳業を多く手がけていた。アガサ・クリスティの『白昼の悪魔』の最初の邦訳は堀田によるものである。
1948年、神奈川県逗子市に転居[5]。処女作である連作小説『祖国喪失』の第1章「波の下」を発表、戦後の作家生活を始める[1]。1950年、10月23日に品川駅でかっぱらいをして逮捕されたと報じられたが[6]、『高見順日記』によると、酔った上でのいたずらだったらしい。
1951年、『中央公論』に話題作「広場の孤独」を発表、同作で当年度下半期の芥川賞受賞[1]。また、同時期に発表した短編小説「漢奸」(『文學界』1951年9月)も受賞作の対象となっていた。
1953年、国共内戦期の中国を舞台にした長編小説『歴史』を新潮社から刊行。1955年、日中戦争初期の南京事件をテーマとした長編小説『時間』を新潮社から刊行。
1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心主義とは異なる国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。この間、1959年にはアジア・アフリカ作家会議日本評議会の事務局長に就任。