堀河天皇
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堀河天皇
『歴代尊影』
第73代天皇
在位期間
1087年1月3日 - 1107年8月9日
応徳3年11月26日 - 嘉承2年7月19日
即位礼1087年1月16日(応徳3年12月9日
大嘗祭1087年12月16日寛治元年11月19日
元号応徳
寛治
嘉保
永長
承徳
康和
長治
嘉承
時代平安時代
先代白河天皇
次代鳥羽天皇

誕生1079年8月8日承暦3年7月9日
崩御1107年8月9日嘉承2年7月19日[1]
堀河院(堀川殿)
大喪儀1107年8月14日(嘉承2年7月24日
陵所後円教寺陵
追号堀河院
(堀河天皇)
諱善仁
元服1089年2月17日寛治3年1月5日
父親白河天皇
母親藤原賢子
中宮篤子内親王
女御藤原苡子
子女鳥羽天皇
?子内親王
寛暁
最雲法親王
喜子内親王
懐子内親王
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堀河天皇内裏跡石碑(破壊され現存しない)

堀河天皇(ほりかわてんのう、1079年8月8日承暦3年7月9日〉- 1107年8月9日嘉承2年7月19日〉)は、日本の第73代天皇(在位:1087年1月3日応徳3年11月26日〉- 1107年8月9日〈嘉承2年7月19日〉)。は善仁(たるひと)。

白河天皇の第三皇子。母は藤原師実の養女で白河中宮賢子准母は同母姉の?子内親王(郁芳門院)。
来歴

応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父の白河天皇から譲位され即位した。このような短期間での立太子・即位は、異母弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇統が移ることを避けるための白河天皇の強い意向によるものだったという。

即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実摂政となり実権を握り、摂関政治への回帰が見られた。白河上皇は師実を信頼し、院庁の人事も師実の人選に任せており、一方の師実も白河上皇に摂関の任命権を委ねるなど、この時期には師実と上皇は協調関係にあり、白河上皇に院政を敷く意志は無かった。堀河天皇が成人して関白も藤原師通に代わると、上皇の政治関与に批判的な師通は、自ら政務を執ろうとする堀河天皇に協力的であり、親政に近い状態が現出することとなった[2]。上皇自身も後見の役目を終えたことに加え、天皇の准母である?子内親王の崩御を機に出家して政務への意欲を失っていた時期でもあったためこの体制が許容されていた。しかし承徳3年(1099年)に師通が働き盛りの年齢で急死すると、若い藤原忠実は堀河天皇を補佐するに足りず、天皇は法皇に政務を相談せざるを得なかった。またかつての師実との協調関係から法皇は摂関家にも強い影響力を持ち続け、結果として白河法皇の院政が成立した。

堀河天皇は「末代の賢王」[3]と評される賢帝として知られた。関白師通との提携による朝政にも熱心に取り組み、「天が下治まりて、民安く世のどかなり」[4]といわれた。しかし白河院の政務への関与が再び強まると、天皇の興味は趣味の世界に移っていった。叔母にあたる中宮・篤子内親王の薫陶を受け、学問・和歌・管弦に才能を発揮して廷臣らに慕われたが[注釈 1]、生来病弱で、在位のまま宝算29で崩御。臨終の様子は乳母の藤原兼子の妹で典侍藤原長子の『讃岐典侍日記』に詳しい。
人物

性格は上品かつ優雅であり、その誠実な人柄は宮廷社会でも人望を集めたという。

政務への情熱を趣味に傾けるようになってからは、音楽、特に管弦を愛好した。夜の御殿の壁にの譜を貼って覚えるほどの熱の入れようで、その腕前も藤原忠実をして「全ク比類ナシ」と感嘆せしめるほどのものだった[注釈 2]。この横笛の能手は一条天皇以来。

また和歌にも優れ、康和4年(1102年)には歌人たちに恋の歌を詠ませた「堀河院艶書合」を主宰、また当時評判の歌人14名[注釈 3]に100首の和歌を詠ませた「堀河百首」を編んでいるが、これが組題百首の嚆矢である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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