堀江_(大阪市)
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堀江(ほりえ)は、大阪府大阪市西区南東部の地域名称。一般的に北堀江および南堀江を指す。郵便番号は北堀江が〒550-0014、南堀江が〒550-0015。
地理

東を西横堀川(埋立。現・阪神高速1号環状線北行き)、南を道頓堀川(西道頓堀川とも)、西を木津川、北を長堀川(西長堀川とも。埋立。現・長堀通)に囲まれた(囲まれていた)地域。東は島之内西心斎橋)、南は難波湊町桜川)、西は寺島千代崎)、北は下船場新町)に隣接する。西横堀川から分岐して中央を西流する堀江川(埋立)によって北堀江と南堀江に分かれる。堀江新地の一角を占め、1943年昭和18年)まで西区に所属していた道頓堀川南岸の浪速区幸町を含む場合もある。
歴史
江戸期の堀江

堀江は大坂城下の南西端に位置し、陸地になったのが最も遅い低湿地であり開発は遅れた。石山合戦の時期は、この地域はまだ海だったと思われ、石山本願寺を支援する毛利をはじめとする大名方と織田信長方の水軍同士の戦闘(木津川の戦い)がこの付近で行われている。

堀江川開削と堀江新地の開発以前には堀江という地域区分はなく、西横堀川沿いに横堀呉服町、道頓堀川沿いに新難波町、木津川沿いに下博労町、長堀川沿いに宗無町・次郎兵衛町と、縁辺部に町があるだけだった。慶安元年(1648年)に玉造口定番の屋敷地拡大のため、玉造の8つの町(二本松町・北新町・大津町・東伊勢町・伏見伊勢町・伏見清水町・伏見長屋町・越中町1丁目)が下博労町の内側に移転して新玉造8町が成立したが、それでも大半は荒地の状態にあった。
堀江新地の開発

江戸幕府天和3年(1683年)に淀川水系の河川改修を河村瑞賢に命じ、河川改修と並行して新地開発も行われるようになった。安治川開削と安治川新地、堂島川曽根崎川改修と堂島新地が成立したのち、元禄11年(1698年)から堀江川開削と堀江新地の開発が始まった。

堀江川の名は、仁徳天皇が開いたという「難波の堀江」に由来するが、両者は場所が一致せず直接の関係はない。「難波の堀江」は上町台地北端から現在の吹田市江坂辺りまで長く延びていた「天満砂堆」という砂州を切り開いて、当時の淀川水系・大和川水系を西流させたもので、現在の大川天満橋付近に当たる。

堀江新地の開発によって堀江に24町(御池通1?6丁目・北堀江1?5丁目・南堀江1?5丁目・橘通1?8丁目)が成立。同時に道頓堀川の南岸に5町(幸町1?5丁目)、安治川開削により旧河道となった古川沿いに4町(富島1?2丁目・古川1?2丁目)が成立し、堀江新地33町と総称された。なお、堀江新地に含まれない縁辺部の町はその後22町を数えるようになった。
堀江への優遇策

堀江新地は大坂では最後発の街であり、開発にかけた資金を回収するため、幕府は商業に対するさまざまな優遇策を打ち出してゆく。

船の営業権や市場の開設など、商いを起こしやすい制度を作った。

市内で制限されていた娯楽を許可し、賑わいを呼ぼうとした。たとえば
相撲文楽の興行、さらに売春業である待合茶屋の営業も許可した。なお、堀江新地と言えばこの堀江遊廓を意味することがある。

江戸期の堀江の商業

これら優遇策により堀江は徐々に賑わいを見せ始める。

まず諸国からの材木を扱う材木業が水運の便利で土地もある堀江に立地した。
長堀川河岸は「材木浜」と呼ばれるほどになり、江戸末期には家具製造、仏具製造、欄間製造などの関連産業も立ち上がった。

長堀川下流部の西長堀に土佐藩蔵屋敷があったが、名産の鰹節をここで全国に販売する鰹座を設置していた。現在も鰹座橋の交差点名が残る。

堀江川沿いには藍玉屋が並び染色業を営んだ。

また、堀江には「青物市」(野菜市場)なども整備された。もともと大坂の青物は天満天満青物市場が独占しており、他の町が青物市を出すことには強硬に反対していたが、堀江の発展のためここにだけ例外的に青物市が認められることになり、近郊農家の多い難波村などから多くの農民が野菜を売りに来た。

江戸期の堀江の娯楽

堀江新地には寺を作る広い土地が確保され、元禄11年(1698年和光寺という大きな寺が作られた。長野の善光寺は、本田善光が「難波の堀江」から金銅製阿弥陀像(欽明天皇の時代に百済聖王(聖明王)から献呈されたが、仏教を嫌う守旧勢力によって川に投げ捨てられた)を拾い上げて故郷に祀ったことが起源とされているが、これに因み智善上人が「この場所こそ善光寺如来の出現の地」であると寺堂を建立した。


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