堀氏
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堀氏

本姓称・藤原氏利仁流
家祖堀季高
種別武家
華族子爵
出身地美濃国
主な根拠地美濃国厚見郡茜部
近江国長浜
越前国北ノ庄
越後国春日山
信濃飯田藩
東京市赤坂区
著名な人物堀秀政
凡例 / Category:日本の氏族

堀氏(ほりし)は、武家華族だった日本氏族の一つ。諸姓に属する堀氏があるが、藤原氏利仁流と称し美濃国に出自を持つ堀氏が最も栄えた。同家の堀秀政織田信長豊臣秀吉に仕えて台頭し、1585年には越前国北ノ庄18万石を与えられた。その子秀治1598年越後国春日山30万石に転封したが、その子忠俊の代の1610年徳川氏により改易された[1]。一方秀治の弟堀親良の系統は小大名信濃飯田藩主として続き、維新後華族の子爵家に列した[2]。 .mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、堀氏に関連するメディアがあります。
起源

堀氏にも他氏と同様異流がいくつかある。後述の堀秀政の系統は藤原氏利仁流斎藤氏族、秀政の従兄弟堀直政は元は清和源氏斯波氏族庶流奥田氏の血脈だが、秀政より堀氏を賜り、藤原に改める。他には、清和源氏頼光流(多田源氏)、桓武平氏良文流千葉氏族、近江国の藤原氏秀郷流、近江国浅井郡堀村の菅原氏族、若狭武田氏族、宇多源氏佐々木氏族、藤原氏利仁流大神氏族などがある。
歴史
概略

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて織田信長豊臣秀吉に仕え活躍した堀秀政の一族が著名である。秀政の死後、関ヶ原の戦いにおいて堀秀治堀直政らは東軍に味方し、徳川氏の下で堀氏は大名として数家が生き残ったが、秀政系、直政系の各宗家は断絶・改易の憂き目に遭い、明治維新を大名として迎えたのは傍流の一部(秀政系で1家、直政系で3家)にとどまった。秀政の孫に当たる嫡男忠俊は、改易の際、芳泉院と名乗り出家。加賀の蓮照寺住職となり、堀家を残し、その後前田家の庇護のもと越中富山の大田口に地所を拝領し、蓮照寺、芳泉院釋定秀として寺を守り、現在の豊田山蓮照寺へと繋がっている。

堀直政の子孫は、嫡男の直清直次)の系統は、直清の嫡男直昌は小浜藩の酒井家に仕え、次男の直浄(直倫)と六男直正(直信)は越後新発田藩の家老となり、七男直勝(直長)は飯田堀家に仕えた。直清の子は三男から五男が不詳であるが、そのうち直成(なおしげ)が飯田堀家に、舎人某は細川越中守(熊本藩)に仕えたという。直政の子孫で、村松藩須坂藩椎谷藩の藩主となった、直寄直重直之の系統は、明治時代に奥田氏に復姓していて、子孫はすでに堀氏ではない(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}椎谷藩の嫡流は奥田復姓を拒み、現在も堀氏で、[要出典]椎谷藩の家督は村松からの養子が相続した)。
春日山(越後福島)藩

堀秀重の嫡男・堀秀政は信長に仕え、近江国坂田郡に2万5,000石を与えられた。本能寺の変後は秀吉に従い、越前国北ノ庄に18万石を与えられた。

秀政の長男・秀治は、慶長3年(1598年)4月に越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石(一説には45万石)[3]へ加増移封され、その際に村上義明(9万石)、溝口秀勝(6万1000石)、堀親良(3万石)、堀直寄(1万石)を与力とした。与力・一門を加えると小早川と鍋島を超え、豊臣政権下で第九位の大大名となった[4]

秀治は24歳のため、豊臣秀吉堀直政をして補佐せしめた[5]。また、越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が前半歳の租税を徴したので、返還を求めたが、上杉氏はこれを拒否した[6][5]。秀治は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、慶長5年(1600年)には福嶋の地に居城移転を計画。

慶長12年(1607年)、堀忠俊の代に越後福嶋城に移る。慶長15年(1610年)に内紛で改易(発端である村松藩の項を参照)。
飯田藩

堀秀政の次男・堀親良蔵王堂に4万石を領し、うち1万石を家老の近藤重勝に分与した。慶長7年(1602年)頃、宗家重臣の堀直政と不和になって対立し出奔、所領を失う。慶長16年(1611年)、下野国真岡に1万2,000石を賜り、江戸で秀忠に拝謁する。この間に堀氏宗家は改易処分を受けているが、隠遁していた親良(当時は秀成)は連座をすることはなかった。

寛永4年(1627年)下野国烏山に移封され2万5,000石を領した(うち5,000石は次弟と三弟に分与、旗本二家を立てる)。嫡男・親昌は寛文12年(1672年)、信濃飯田2万石に転封となる。その後の歴代当主は水野忠邦の失脚による連座、天狗党に対して何の対処もとらずに関所を通過させた件などで、数度の減封があり1万5000石で明治に至る。
明治以降

最後の飯田藩主堀親広は、明治2年(1869年)に版籍奉還知藩事に転じるとともに華族に列し、1871年(明治4年)の廃藩置県まで知藩事を務めた[7]。明治17年(1884年)の華族令で華族が五爵制になると旧小藩知事(飯田藩は現米1万40石で現米5万石未満の小藩に該当)として子爵家に列する[8]

堀子爵家の邸宅は東京市赤坂区新町にあった[9]
奥田堀家(奥田家)

奥田氏→堀氏→奥田氏

家祖堀直政
種別武家
華族子爵
出身地尾張国
凡例 / Category:日本の氏族


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