堀川_(名古屋市)
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堀川
御陵橋上より堀川下流方向を望む。
(2014年(平成26年)1月)
水系一級水系 庄内川
種別一級河川
延長16.2 km
流域面積52.5 km²
水源庄内用水元杁樋門(守山区
河口・合流先伊勢湾港区
流域愛知県名古屋市

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堀川(ほりかわ)は、愛知県名古屋市を流れる庄内川水系一級河川

江戸時代初期の名古屋開府に際して、建築資材運搬用の運河として伊勢湾から名古屋城付近まで開削されたことがそのルーツとされる。その後、明治初期において庄内川からの取水を開始し、庄内川水系に属する形となった。また堀川の一部の区間は、その成立の経緯から黒川(くろかわ)とも呼ばれ、流域の地名(黒川本通)にもなっている。

本項では、2012年時点において水源を同じくする庄内用水(しょうないようすい)に関しても併せて記述する。
地理庄内用水頭首工(守山区)猿投橋(北区)納屋橋(中村区)

愛知県名古屋市守山区にて庄内川から取水する形で始まり、矢田川を地下水路で伏越した後、名古屋城のある南西方向へ流れる。名古屋城を北側から西側に回り込んだ後、名古屋市中心部を南方向へ流れて伊勢湾(名古屋港)に注ぐ。

庄内川の水分橋東側に所在する庄内用水頭首工においてせき止められた水を庄内用水元杁樋門より取水し、水路は庄内用水として南下する。矢田川の地下を三階橋東側に所在するトンネル(伏越)でくぐり、トンネル出口の三階橋ポンプ場内で農業用水である庄内用水と分岐する。水量調整用の水門である黒川樋門から通称「黒川」として名古屋城周辺まで南西方向に流れる。名古屋城を北側から西側に回りこ込んだ後、朝日橋以降は「堀川」としてほぼ南方向に流れ、河口の名古屋港(伊勢湾)に至る。途中、熱田区七里の渡し付近にて新堀川と合流する。かつては松重閘門(中川区)において中川運河とも連絡していたが、2012年時点で閘門水路は埋め立てが行われており、船舶による往来はできない。

庄内用水は、三階橋ポンプ場内で黒川と分離した後、ほぼ矢田川、庄内川に並行する形で流れる。

名古屋城周辺から熱田までの区間は、熱田台地(名古屋台地)の西側に沿う形で流れている。このため総じて川の左岸(東側)が右岸(西側)よりも高くなっている。黒川部分の途中、猿投橋において流れに約3.8mの段差が生じており、それ以降の下流域は伊勢湾の潮汐の影響を受け、満潮時には流れの逆行も起こる感潮域となっている。また、堀川の水深は潮の干満で1 - 3m程度変化する。

発祥の経緯のとおり、特に朝日橋より下流の「堀川」は名古屋港の一部として指定され[1]河川管理を名古屋港管理組合が主管しているなど[2]、川というよりは運河としての性格が強い。
流域の自治体

2013年時点で、堀川・庄内用水とも全て名古屋市の行政区内のみを流れる。このため、流域における気候については名古屋市のそれに準ずることとなる。

以下、上流から下流の順に記述する。なお流域で堀川が名古屋市各行政区の境とのみなっている場合には、右岸左岸の別を付記した。
堀川

守山区 - 北区 - 西区 - 中区(左岸) - 中村区(右岸) - 中川区(右岸) - 熱田区 - 南区(左岸) - 港区
庄内用水

守山区 - 北区 - 西区 - 中村区 - 中川区 - 港区
歴史堀川堀留の石碑
朝日橋(西区)の袂にある黒川(御用水跡街園・北区)堀川口防潮水門(港区)

一般に堀川は、1610年慶長15年)に福島正則徳川家康の命により、名古屋城築城の天下普請に際して資材運搬を目的とした水路として、2013年時点における朝日橋付近までを掘削したとされている[注釈 1]。ただし、当時の土木技術の水準では、何もない所に全く新しい水路を引くのは困難であるとして、堀川の位置には元々、何らかの自然河川が存在したとする説も存在する[3]。なお、尾張藩の公的な記録集である『事績録』には、慶長16年2月に名古屋城普請に携わっていた20の大名に対して名古屋城までの運河開削のために千当たり1名の人夫を出すことを命じられた(『蓬左遷府記稿』)とあり、同年6月には熱田白鳥から名古屋城下までの運河開削がほぼ完了したこと、白鳥付近は担当した福島正則(左衛門大夫)から「太夫堀」と呼ばれたとの記載がある。[4] その後、堀川は尾張藩城下町となった名古屋への物資の水運に使われるようになった。

名古屋城付近の堀留(朝日橋以北)の上流部は、堀川と並行して流れていた庄内用水の東井筋[注釈 2]に注いでいた大幸川[注釈 3]の付け替えとして、江戸時代後期の1784年(天明4年)に2013年現在の猿投橋付近から朝日橋付近までが開削されたとされる。

さらに明治に入り1877年(明治10年)、愛知県技師の黒川治愿によって、矢田川を地下で伏越して庄内川を横断し、八田川・新木津用水を経由して犬山市に至る運河として、大幸川を延伸・拡幅する形で開削または拡幅・浚渫された。この経緯から、堀川の朝日橋から矢田川手前の黒川樋門の間の区間は通称として「黒川」と呼ばれている。また、1976年まで名鉄瀬戸線に「堀川駅」という堀川に面したターミナル駅があったのは、愛知県瀬戸市で生産された瀬戸焼を堀川を通じて輸出するためであった[注釈 4]

黒川の開削当時には、平行して御用水と呼ばれる名古屋城の堀の水源となる用水路が流れていた。御用水は、1663年(寛文3年)にそれまで名古屋城の堀の水源となっていた湧水が枯渇してきたことに対応する形で開削された用水路である。庄内川(竜泉寺付近)から取水し、名古屋城外堀までを結んだ。途中の矢田川とは開削当初は平面交差していたが、1676年(延宝4年)に伏越が設けられて立体交差になった。名古屋城の堀からは辰之口水道大樋(現在の朝日橋と大幸橋の間)から堀川に放流されるようになり、これにより堀川に河口方面への流れが生じるようになったとされる。黒川開削に際して、御用水についても黒川と同じ庄内用水頭首工からの取水に切り替えられた。以後、黒川と御用水は名古屋城近辺まで並行して流れる形となっていたが、1972年(昭和47年)に埋め立てられ、その後1974年に跡地の一部が御用水跡街園として整備された。

2007年4月1日、河川の管理権限が愛知県から名古屋市に移譲されている[WEB 1]

2018年3月9日から、朝日橋と納屋橋の間で観光船(屋形船)の試験運航が行われた[WEB 2]
年表

本年表は『名古屋港と三大運河』巻末年表の記述から抜粋した[5]

1610年 - 福島正則、徳川家康より堀川開削を拝命、開削に着手。

1611年 - 伊勢湾 - 名古屋城間が開通。

1663年 - 御用水が開削され、堀川への放流が開始される。

1742年 - 庄内用水の取水位置が変更され、矢田川を伏越するルートとなる。

1784年 - 大幸川の付け替えを行い、堀川に流入するルートとなる。

1878年 - 前年より行われていた「黒川」の開削が完了する。

1910年 - 庄内用水元杁樋門の改築工事実施。人造石によるアーチ型水門となる。

1911年 - 瀬戸電気鉄道(現:名鉄瀬戸線)堀川駅が開業。瀬戸から陶器などが運ばれ、堀川経由で輸出される。

1917年 - 河川法による準用河川に認定される。

1931年 - 猿投橋 - 朝日橋間の浚渫工事実施により、同区間が伊勢湾の潮の影響を受ける汽水域になる。


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