堀川用水
延長本線:11km
支流を含む:約88[1]km
灌漑面積664ha
取水元筑後川(福岡県朝倉市山田の山田堰)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度21分55.4秒 東経130度45分32.2秒 / 北緯33.365389度 東経130.758944度 / 33.365389; 130.758944
堀川用水(ほりかわようすい)は、筑後川右岸の福岡県朝倉市にある農業用の用水路。
旧朝倉町及び甘木市にある計664 haの水田を潤している[2]。
床島用水、大石長野用水、袋野用水とともに「筑後川四大用水」の一つに数えられ、そのうち最も古く開削されたものである[3]。現在の管理者は山田堰土地改良区である[4]。 水路は江戸時代前期の1663年(寛文3年)に福岡藩士の木村長兵衛、魚住五郎右衛門によって着工され、翌年に竣工した。現在の取水口は朝倉市山田にある山田堰(やまだぜき)である[4][5]。用水の途中には分岐点(田中突分)があり、山田堰から約11 km伸びた本線はここで北線と南線とに分かれる。うち北線は最初からの堀川用水であり、南線は1764年(明和元年)に古賀十作義重(古賀百工(こがひゃっこう)、1718年 - 1798年)によって完成されたもの(新堀川)である[6]。 沿線には日本最古の実働する水車である三連水車1基、二連水車2基があり[5]、「朝倉の三連水車」で昭和62年度手づくり郷土賞「水辺の風物詩部門」受賞[7]。1990年に用水路とともに「堀川用水及び朝倉揚水車」として国の史跡に指定された[3]。また、「堀川用水」は2006年には農林水産省の疏水百選に、「山田堰」は2012年に土木学会の土木学会選奨土木遺産に、「山田堰、堀川用水、水車群」は2014年(平成26年)9月には国際かんがい排水委員会が認定する「かんがい施設遺産」にそれぞれ選定・登録された[4][8][5]。2017年3月に、「堀川の環境を守る会」と「山田堰土地改良区」が、「郷土の宝・財産「山田堰・堀川用水・水車群」を地域で守ろう」で国土交通省の平成28年度手づくり郷土賞大賞を受賞した[9]。 江戸幕府において、各藩は財政状況を改善するために、新田開発を推進する政策を取り始めた。江戸時代初期には水田の面積が小さく、日照時間も長く、蝗害や筑後川による洪水も度々発生し、作物が取れない状態にあった旧朝倉町一帯は、この堀川用水の建設により穀倉地帯に変貌した。福岡藩は1662年(寛文2年)の干ばつを契機に、安定した稲作を営むために1663年に藩士の木村長兵衛、魚住五郎右衛門に現在の山田堰のおよそ20 m下流に用水路を作らせ、翌年に竣工した。筑後川の水を導入することにより、上座郡古毛村から下座郡城力村までの2里、9か村の150町歩余りが開田されたという[2][3][6][10][11]。 しかし、取水口における土砂
概要
歴史現在の切貫水門
1759年(宝暦9年)、新田が増加しすぎた原因で堀川用水の水量は不足し、下流の田には水が来なくなった。また、用水が通っていない上座郡南西部の数カ村はいつも干ばつ状態にあったため、当時の下大庭村庄屋であった古賀百工は堀川用水の改修及び新堀川の開削について考え始めた。村人の協力を得て測量を行った上、計画書を作成し、藩庁に提出した。上座郡奉行嶋井市太夫が検分した結果、用水路の幅の拡張、新堀川の掘削、取水口の拡張、突堤井堰の嵩上げが実施されることとなった。まず切貫水門は約2倍の10尺四方に切拡げられ[13]、堀川用水による灌漑面積は218町9反歩に増加した。一方、上座郡田中村付近の堀川用水に分岐点を設け、そこから南西方向へ分岐する新堀川の開削工事は、5年をかけて1764年(明和元年)にようやく完成した。新堀川の通水により、堀川用水を水源とする水田の面積は約370町歩までに広がった[3][6][11]。
山田堰は筑後川の対岸まで伸びていなかったため、堀川用水に流入する水量も不安定であった。1787年に、70歳の古賀百工は庄屋としての責任から、筑後川取水口の全面改修の必要性を感じた。堰を川幅いっぱいに広げ、多量の水を堀川に注ぎ込むことができれば、上座郡・下座郡一帯は永久に干ばつに見舞わないと思い、現在の山田堰のような石畳の絵図を作成した。1790年(寛政2年)に、福岡藩は古賀百工に対し、山田堰大改修の命令を下した。同年に工事が完成された後、堀川用水は487町9反の農地を潤すことができて、約120町歩の新田が開発された[2][6][10]。
筑後川は頻繁に洪水を起こすので、山田堰も1874年、1885年、1953年、1980年に被災したが、その都度改修が行われ現在も昔の面影を留めている[2][4]。1980年の水害では山田堰の42%が被災したが、県が6億5,000万円を投じて総張石コンクリート造で原形復旧させた[10]。