堀尾 文人基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ハワイ準州マウイ島
生年月日 (1907-03-15) 1907年3月15日
没年月日 (1949-12-11) 1949年12月11日(42歳没)
身長
体重177 cm
71 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション外野手
プロ入り1936年
初出場1936年
最終出場1941年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
マウイ高校中退
東京巨人軍 (1935)
阪急軍 (1936 - 1938)
大阪タイガース
阪神軍 (1939 - 1941)
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堀尾 文人(ほりお ふみと、本名:ジェームズ・フミオ・ホリオ、1907年3月15日[1] - 1949年12月11日)は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。外野手(センター)。愛称は"ジミー"で「ジミー堀尾」。
アメリカ国籍の日系二世[2]。1934年の「大日本東京野球倶楽部」創立メンバーの一人で[3][4]、日本プロ野球の外国人選手(外国籍選手)第1号[5][6][7][8]。スイッチヒッター第1号[9][10]。またアメリカでアジア人メジャーリーガー第一号を目指した選手とされる[11][12]。目次 両親とも広島出身で、父・島太郎と家族は1890年、数万人の広島県人とともにハワイ王国へ移住[12]。(1893年にハワイ共和国、1898年にハワイ併合によりアメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii 1928年、堀尾一家はプランテーション労働に見切りをつけて広島に引き揚げ、以降広島で暮らすが、ジミーはプロ選手になる夢を叶えるため、単身でアメリカ本土に渡る[14]。ロスアンゼルスでトラック運転手などをしながら日系人野球チームで野球を続ける[14]。グランドセントラル・マーケットのアマチュアチームでしばらくプレー。この時代には高橋吉雄や松浦一義らとも同チームでプレーした。1930年、地区最強の日系二世のセミプロチーム、ロサンゼルス・ニッポンズ(LA日本)に入団[14]。1931年春、大阪毎日新聞記者・小野三千麿らの尽力によりロサンゼルス・ニッポンズの一員として帰国[14]。若林忠志らのいた法政大学など日本の大学野球部やアマチュアクラブチームと対戦し圧勝。ジミーも強肩、強打と守備で日本人に鮮烈な印象を与えた[14]。また、日本語が話せたので日本の選手と仲良くなる[14]。日本から帰国して更に三年、ニッポンズに在籍したが、メジャーのスカウトから声はかからなかった[17]。1934年、27歳になったこともあり、ロサンゼルスをあきらめ、ネブラスカ・ステート・リーグ(Dクラス)に所属するサウスダコタ州スーフォールズ市のマイナーリーグ「カナリーズ」に入団[17]。ここでジミーはずば抜けた守備力の外野手としての評価を勝ち得た[17]。ジミーは"黄渦"(イエロー・ペリル)と仇名された[17]。ネブラスカ・ステート・リーグ唯一の日本人だったジミーに対する野次は酷く、相手チームや観客の格好の餌食となった[17]。しつこい野次を繰り返す観客に対して、グラウンドに降りてこいと凄んだこともある[17]。同年秋、全米(MLB)選抜チームが日本に遠征するという話を耳にする[18]。
1 来歴・人物
1.1 生い立ち
1.2 アメリカ本土へ
1.3 巨人軍創設に参加
1.4 再びアメリカへ
1.5 阪急軍
1.6 阪神
1.7 ハワイ帰国
2 逸話
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 背番号
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
来歴・人物
生い立ち
アメリカ本土へ