堀内 文次郎
ほりうち ぶんじろう
生誕1863年10月29日
信濃国、松代藩
死没 (1942-03-14) 1942年3月14日(78歳没)
日本、東京府
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1885 - 1916
最終階級中将
除隊後平安中学校長
満蒙学校長
全日本アマチュア拳闘連盟会長
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堀内 文次郎(ほりうち ぶんじろう、文久3年9月17日(1863年10月29日) - 1942年(昭和17年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。陸士旧7期。栄典は従四位勲二等功二級。最終階級は陸軍中将。
名前に関しては「文二郎」[1]や地元では「文治郎」[2][3]の表記も見える。号を「信水」と称した。 御安町にて松代藩士・堀内荘作の二男として生まれる。攻玉社を経て、1885年(明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業し歩兵少尉に任官。陸士教官、台湾総督府副官、陸軍省軍務局出仕などを歴任。1900年(明治33年)4月、歩兵少佐に昇進し参謀本部副官に就任、1906年(明治39年)7月まで在任。 日露戦争では1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)12月まで大本営陸軍部副官を兼務し後方支援を担当。この間、1904年8月、歩兵中佐に進級。1906年7月、第13師団歩兵第58連隊長(新潟県高田)に就任。歩兵第58連隊長在任中、鶴見宜信大尉ら連隊の将校11名を選抜し専修員としてテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐によるスキー指導を受けさせた。(これが「日本スキー発祥」と言われている。)1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第23旅団長に就任(長崎県)[4]。第一次世界大戦において青島の戦いに出征。1916年(大正5年)5月、陸軍中将に進むと同時に待命となり、同年8月、予備役に編入された。 軍を退いた後は教育・スポーツに力を入れ、1929年(昭和4年)、高田(現新潟県上越市)で開いたスキー発祥20周年記念大会で講演しスキーの発展を訴えた。 その後、平安中学校長、満蒙学校長、全日本アマチュア拳闘連盟会長などを務めた。詩歌など文芸に親しみ「田毎の月」で名高い姨捨の長楽寺(千曲市)裏山に別荘「名月荘」を所有するなど風趣
経歴
1942年(昭和17年)3月14日、帝国ホテルにて徳富蘇峰の数え年80歳の誕生会に出席。その帰りの午後9時頃、東京市電日比谷交差点三信ビル前路上において自動車にはねられ、線路上に倒れているところを市電運転手に発見されたが、内臓破裂で即死していることが確認された[5]。享年78。
葬儀は19日、青山葬儀所にて行われた。
年譜「大日本スキー発祥之地」記念碑(新潟県上越市金谷山スキー場)
1885年(明治18年)6月18日 - 少尉、歩兵第19連隊附
1887年(明治20年)3月1日 - 陸軍教導団歩兵大隊小隊長
1889年(明治22年)11月2日 - 中尉、士官学校生徒隊中隊附
1890年(明治23年)3月26日 - 陸軍教導団歩兵生徒隊附
1893年(明治26年)9月29日 - 陸軍士官学校生徒隊中隊附
1894年(明治27年)11月8日 - 陸軍歩兵大尉・陸軍士官学校教官
1892年(明治25年)
8月17日 - 一等給下賜[6]
5月17日 - 陸軍士官学校生徒隊中隊長
1894年(明治27年)11月8日 - 大尉、台湾総督府副官
1896年(明治29年)
2月19日 - 一等給下賜[7]
6月18日 - 兼陸軍士官学校教官
1897年(明治30年)12月6日 - 陸軍省軍務局課員
1898年(明治31年)3月11日 - 台湾総督府副官
1899年(明治32年)
8月1日 - 陸軍省軍務局出仕
11月9日 - 参謀本部出仕兼陸軍省軍務局出仕
1900年(明治33年)4月7日 - 少佐・参謀本部副官
1904年(明治37年)
2月10日 - 兼大本営陸軍部副官
8月10日 - 中佐
1905年(明治38年)12月20日 - 参謀本部高級副官
1906年(明治39年)