堀内光一郎
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ほりうち こういちろう
堀内 光一郎
2011年7月
生誕 (1960-09-17) 1960年9月17日(63歳)
日本 山梨県
出身校慶應義塾大学経済学部
職業実業家
配偶者堀内詔子
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堀内 光一郎(ほりうち こういちろう、1960年昭和35年〉9月17日 - )は、日本実業家

富士急行株式会社代表取締役社長山梨中央銀行監査役テレビ山梨会長、山梨経済同友会副代表幹事、富士吉田商工会議所会頭[1]、社団法人日本バス協会前会長、富士五湖観光連盟会長、慶應義塾大学理事・評議員、日本スケート連盟理事、日本民営鉄道協会理事、千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会理事[2]根津美術館評議員、山階鳥類研究所評議員、山種美術館評議員、ミズノスポーツ振興財団評議員[3]日本経済団体連合会審議員、身延山久遠寺参与・信徒総代、軽井沢会監事、日本ホテル協会監事、恩賜財団母子愛育会愛育病院運営母体)評議員、名誉ソムリエ等を歴任。
経歴

1960年 - 山梨県生まれ。

1976年 - 学習院中等科卒業。

1979年 - 慶應義塾高等学校卒業。

1983年 - 慶應義塾大学経済学部卒業。

同年 - 株式会社日本長期信用銀行(現・株式会社SBI新生銀行)入行。


1988年 - 富士急行株式会社経営企画部長。

同年 - 岳南鉄道株式会社取締役。


1989年 - 富士急行株式会社代表取締役社長。

29歳での社長就任は、当時の上場企業中で最年少であり、歴代でも最年少であった。


1999年 - 富士急商事株式会社(現・株式会社エフ・ジェイ)代表取締役。(現職)

同年 - ハイランドリゾート株式会社代表取締役。(現職)


2004年 - 身延登山鉄道株式会社代表取締役社長。(現職)

2008年 - 株式会社マルイ社外取締役。(2018年退任)

2012年 - 山梨中央銀行監査役。(現職)

家族・親族
系譜



清和源氏甲斐源氏逸見氏堀内家の嫡流[4]。武田家家臣の子孫とその来歴について書かれた『甲陽重家録』によれば、逸見光長の四世孫の堀内長宗が建長のはじめに鎌倉街道金川筋上黒駒に移住し、武田家に臣従したという。

身延山久遠寺の記録には、鎌倉期の1282年(弘安5年)9月11日(旧暦)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が上黒駒の堀内長家宅に宿泊した、とある[5]。このように日蓮宗と関わりが深く、身延山久遠寺の信徒総代を良平から光一郎まで代々勤めている。

上述のように先祖は鎌倉時代から代々甲斐守護大名の武田氏に仕え、武田信玄の元では、佐渡守(堀内政俊)、若狭守(堀内政豊)を拝任[4]川中島での戦功を称され宝刀を授与されたり、堀内政豊は三枚橋城の城将に任ぜられた[6]。なお、宝刀並びに鎧、陣笠などは当家に今も保管されているという[4]

甲斐国志にも堀内家の記録が残されており、江戸時代には上黒駒周辺の名主を務めた、と書かれている。

帰農した堀内政豊(堀内家十八代目、初代藤右衛門)が上黒駒に移住してきた長宗と同じ藤右衛門を名乗るようになり、以降当主は十三代目まで代々”藤右衛門”の名を承継した。


代々光一郎を除き衆議院議員を務めていることから、衆議院議員の金丸信の金丸家、衆議院議員・山梨県知事の天野久らを輩出した天野家、衆議院議員・山梨県知事の田邊圀男らを輩出した田辺家と併せ山梨政界四家と言われた[7]

妻の詔子は、父の小林喬が明仁上皇と、自身が秋篠宮文仁親王と学習院で同窓であった[8]ことなどを背景に、かつて皇太子徳仁親王(現在の今上天皇)のお妃(=皇太子妃)候補として名前が挙がることがあった[9][10][11][12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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