埴輪
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塚廻り古墳群第4号墳の墳丘上に復元配置された埴輪群(群馬県太田市、出土した原品は重要文化財[1]

埴輪(はにわ)は、古墳時代日本の特有の器物。一般的には土師器に分類される素焼き土器である[注 1]。祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた。日本各地の古墳に分布している。
概要


円筒埴輪の例。メスリ山古墳より出土した大型円筒埴輪(重要文化財、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館所蔵)形象埴輪の例。群馬県太田市より出土した『埴輪武装男子立像』(国宝東京国立博物館蔵)

埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した。大きく円筒埴輪形象埴輪の2種類に大別される。

円筒埴輪は、普通円筒(最も基本的な土管形のもの)[2]朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪などに細分される。墳丘を取り囲む周提帯の上や、墳丘頂部、墳丘斜面に設けられた段部(テラス状の平坦面)に横一列に並べられた。

形象埴輪は、家形埴輪・器財埴輪・動物埴輪・人物埴輪の4種に区分され、墳丘頂部の方形基壇や、造出と呼ばれる墳丘裾の基壇状構造物の上に立て並べられた。形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの復元が可能である。なお、「壺形埴輪」と呼ばれるものについては、壺という器物を表しているため形象埴輪とも言いえるが、歴史的には弥生時代の「特殊壺」が埴輪化していったものであるため(円筒埴輪と一体化して朝顔形埴輪にもなった)、他の形象埴輪群とは起源や系統が大きく異なり、円筒埴輪に類するとされている[3](埴輪の起源については後述)。

埴輪の構造は基本的に中空で、粘土で紐を作り、それを積み上げていきながら形を整えて作った。時には、別に焼いたものを組み合わせたりしている。また、いろいろな埴輪の骨格を先に作っておき、それに粘土を貼り付けるなどした。型を用いて作ったものはない。中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料が塗布された。畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったが、関東地方では形象埴輪に様々な彩色が施されている。
歴史
起源埴輪の起源と考えられている特殊器台と特殊壺(複製)
国立歴史民俗博物館

埴輪の起源は、考古学的には吉備地方の墳丘墓に見られる特殊器台・特殊壺にあるとされ、それらから発展した円筒埴輪と壺形埴輪がまず3世紀後半に登場し、次いで4世紀に家形・器財形・動物形()が出現し、5世紀以降に人物埴輪が作られるようになったという変遷過程が明らかとなっている[4][5][6]

3世紀後半になると、前方後円墳岡山県岡山市都月坂1号墳、奈良県桜井市箸墓古墳兵庫県たつの市御津町権現山51号墳)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[注 2]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。最古の埴輪である都月型円筒埴輪と、最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とは同じ墳墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。ただ一例、兵庫県たつの市の権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。

なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている(吉備勢力の東遷説もある)。

一方、文献上では『日本書紀』の垂仁天皇32年条に、野見宿禰日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したところ、天皇が喜びその通りにしたとする記述があり、これが埴輪の始まりとされる。「埴輪」という名称もこの記事に登場する[7]。しかし、『日本書紀』にあるこの記述は考古学研究で明らかにされた埴輪の変遷とは一致せず[7][8]人身御供の代替として埴輪が誕生したとする説は、野見宿禰の後裔を称し、古墳造営や葬儀を職掌としていた土師氏が後世に創作した伝承と考えられる[9][10][注 3]
変遷馬形埴輪(東京国立博物館)

古墳時代前期初頭(3世紀中葉?後葉)には、吉備地方において円筒形・壺形、少し遅れて器台と器台に乗せた壺が一体化した形の朝顔形埴輪などの円筒埴輪が見られた。これら筒形埴輪は、地面に置くだけではなく、脚部を掘った穴に埋めるものへと変化した。前方後円墳の広がりとともに全国に広がった。

前期前葉(4世紀前葉)には、これらの埴輪とは別の系統に当たる家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。初現期の形象埴輪については、どのような構成でどの場所に建てられたか未だ不明な点が多い。その後、墳頂中央で家型埴輪の周りに盾形・蓋形などの器財埴輪で取り巻き、さらに円筒埴輪で取り巻くという豪華な配置の定式化が4世紀後半の早い段階で成立する。そこに用いられた円筒埴輪は胴部の左右に鰭を貼り付けた鰭付き円筒埴輪である。

さらに、古墳時代中期中葉(5世紀中ごろ)からは、巫女などの人物埴輪や家畜であるなどの動物埴輪が登場した。埴輪馬は裸馬のものと装飾馬があり、装飾馬は馬具を装着した姿で表現される。群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳は保渡田古墳群に含まれ、5世紀後半代の前方後円墳で、馬やなど多くの動物埴輪が出土している[12]。保渡田八幡塚古墳から出土した鵜形埴輪は首を高く上げ口に魚を加えたの姿を形象しており、首にはのついた首紐が付けられ、背中で結ばれる表現も残る[12]。鵜形埴輪の存在から、古墳時代には祭礼や行事としての鵜飼が行われていた可能性が考えられている[12]

またこの頃から、埴輪の配列の仕方に変化が現れた。それは、器財埴輪や家形埴輪が外側で方形を形作るように配列されるようになった。あるいは、方形列を省略することも行われている。さらに、靭形埴輪の鰭過度に飾り立てるようになったり、家型埴輪の屋根部分が不釣り合いに大型化したりするようになる。

畿内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)、次第に埴輪は生産されなくなっていく。しかし、関東地方においては、なおも埴輪の生産が続けられた。なかでも、埼玉県鴻巣市生出塚埴輪窯跡は当該期の東日本最大級の埴輪生産遺跡として知られる。
研究史

近代的考古学研究が始まる前の江戸時代にも、日本各地で埴輪が出土することがあり、中には写実性に欠けるものもあるが絵図や記録が作成された。現在、こうした江戸時代の古記録は埴輪の研究史上の重要な資料であり、文書記録だけが残り現物が伝わっていない埴輪もあることから、各地の郷土資料としても貴重である。当時は埴輪と呼称せず、瓦偶人(がぐうじん)と記した(当然、人物埴輪に対してのみの呼称である)。なお、1870年(明治3年)板刻の『上代衣服考』には「武州児玉郡若泉山所掘出物」の絵がみられる[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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