埴生
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この項目では、山口県山陽小野田市の地域について説明しています。

千葉県にあった郡については「埴生郡」をご覧ください。

長野県にあった町については「埴生町」をご覧ください。

日本にあった村については「埴生村 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

京都府南丹市の地名については「園部町埴生」をご覧ください。

埴生地域
はぶ
日本
地方中国地方
都道府県山口県
自治体山陽小野田市
旧自治体厚狭郡埴生町→山陽町の一部
面積24.63km²
世帯数2,166世帯
総人口4,918人(国勢調査、2020年10月1日)
人口密度199.68人/km²
隣接地区山陽小野田市厚狭地域
下関市(吉田地区・王喜地区)
山陽小野田市役所埴生支所

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度2分22.04秒 東経131度5分38.1秒 / 北緯34.0394556度 東経131.093917度 / 34.0394556; 131.093917座標: 北緯34度2分22.04秒 東経131度5分38.1秒 / 北緯34.0394556度 東経131.093917度 / 34.0394556; 131.093917
所在地〒757-0012
山口県山陽小野田市大字埴生275番地[1]

特記事項:『山陽小野田市都市計画マスタープラン』による地域区分(山陽小野田市域のうち埴生小学校・埴生中学校区)。大字津布田のごく一部(新沖部・大河の各自治会[2])が除外される。
位置画像の紫色が埴生地域。境界線は(旧山陽町を除き)平成の大合併以前のもの。
人口・世帯数は令和2年国勢調査(2020年10月1日現在)における大字埴生・大字津布田・大字福田を合計したもの。『山陽小野田市都市計画マスタープラン(2019年改定版)』でも同様の手法をもって埴生地域の人口としている。
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埴生(はぶ)は、日本国山口県山陽小野田市西端部の地名。下関市宇部市のほぼ中間に位置し、周防灘瀬戸内海)に面する。国道2号国道190号の結節点であり、山陽オートレース場が所在する。

当項目では大字埴生を中心に、かつて厚狭郡埴生町(村制時代は生田村)であった区域にある大字福田(ふくだ)、大字津布田(つぶた)を併せた、山陽小野田市の埴生地域について解説する(以後「大字」は省略する)。埴生町・生田村については#近現代において扱う。

埴生地域の総人口は4,918 人(2020年10月1日現在)[3]、総面積は24.63 km2[4]である。
地理埴生の中心集落(石山公園より撮影)丘陵地(下福田)

山陽小野田市西部の海岸平野(埴生低地)に位置し、周辺を石山山地、津布田丘陵などの丘陵地に囲まれている[5]。下関市に隣接しており、同市と密接な関係を持つ地域である[6]。中心集落(埴生字上市から字浜崎にかけての海岸沿いの地域)は埴生低地に形成された漁村集落であり、周辺の福田・津布田は農業を主とする。

おもな河川としては、糸根川が大持集落(おおもつ、埴生の北部に位置)から、前場川が北東部の福田からそれぞれ南流し、周防灘へ注ぐ。埴生低地は両河川の下流部に広がる谷底平野である。南東部の津布田には三畳紀炭田無煙炭)が広がり、昭和中期まで採掘が行われていた。
気候

埴生(山陽小野田市)は瀬戸内海式気候太平洋側気候の接点にあたり、両気候の性質を併せ持った気候となる。埴生にアメダスは設置されていないが、旧山陽町の1971年から1980年の統計によると、年平均気温は15 ℃、年平均降水量は約1,600 - 1,700 mm、降雪日数は年4日という。降水量の3分の1は梅雨期に集中する[7]
人口の推移

年大字埴生大字津布田大字福田合計出典
1995年4,9641,5952906,849国勢調査
[8]
2000年4,7021,6062626,570国勢調査[9]
2005年4,5121,4992536,264国勢調査[10]
2010年4,1591,3742375,770国勢調査[11]
2015年3,9211,2502105,381国勢調査[12][13]
2020年3,6391,0821974,918国勢調査[3]

歴史
古代以前

埴生地域においては縄文時代・弥生時代の遺跡は希薄であるが、これは1980年代時点でほとんど調査がなされていなかったことが理由である[14]。古墳時代後期には津布田に平松古墳群が築造され、古墳時代末期には、埴生にも複数の円墳が築造された。

延喜式』には山陽道駅家として「埴生」が記されている。これが地名としての「埴生」の初出である。
中世

鎌倉時代初頭の埴生地域内には石清水八幡宮荘園として埴生荘・津布田荘がおかれていた。文献上では埴生荘は承安元年(1171年)、津布田荘は仁治元年(1240年)がそれぞれ初見であり、埴生荘は文安2年(1445年)においても存続していた[15]。後に厚狭郡東部(当時は便宜的に「厚東郡」と呼称)を拠点とする厚東氏が当地へも勢力を及ぼすようになったが、室町時代初期(1368年以降)に厚東氏が滅亡し、長門国が大内氏の支配下となった後は、大内氏諸氏の所領がみられるようになる。
近世埴生地域から九州方面を望む(2014年撮影)

近世(江戸時代)の埴生地域は萩藩領(毛利氏、一部は支藩の長府藩領)となり、吉田宰判が地域の支配に当たった。萩藩領は蔵入地(直轄領)と給領地(藩士の知行地)に大別され、埴生村は蔵入地が多く、津布田村はほぼ全域が給領地(榎本氏の所領)であった。地域内には当初、埴生(史料により字体が異なる)、津布田の2村があり、江戸時代中期に埴生村から福田村が分立したが、同村は以後の史料でも埴生村の一部とされることがあった[16]。史料によっては大持(おおもつ)、小埴生(おはぶ)が独立した村として記載されており、江戸時代後期の天保期(1830年代ごろ)には埴生村が埴生浦・小埴生村・大持村に分割された(1879年に再び埴生村に復している)。これは長府藩領の飛地が埴生村内にあったためだとされており[17]、実際に福田・小埴生・大持の3村は長府藩の支配下であった。

この時代の山陽道(西国街道)は「厚狭 - 埴生 - 小月」から「厚狭 - (福田) - 吉田 - 小月」経由に変更され、埴生は枝道(脇街道)の扱いとなった。ただし枝道であっても九州方面への近道となることから利用は多く、年代は不明であるが、枝道との分岐点(山野井村)には「下関や九州への渡航」を禁止する立て札が立てられていたという[18][19]。山陽道が通過する福田には一里塚がおかれていた[16]

慶長5年(1600年)の検地における石高は埴生村が約1,560、津布田村が約785石であった[20]
近現代
行政区域の変遷

はぶちょう
埴生町
廃止日1956年9月30日
廃止理由新設合併
埴生町・厚狭町→
山陽町
現在の自治体山陽小野田市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方
都道府県山口県
郡厚狭郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積23.4 km2.
総人口8,994人
(『山陽町史』p.772、1956年9月1日)
隣接自治体下関市(旧王喜村・吉田村)、厚狭町
埴生町役場
所在地山口県厚狭郡埴生町大字埴生
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