城館
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「出城」はこの項目へ転送されています。大阪市の地名については「出城 (大阪市)」をご覧ください。

「城」のその他の用法については「城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
フィンランドハメーンリンナハメ城

城(しろ)は、敵を防ぐために土や石で堅固に築いた建物・設備。
概説

主に近代以前の軍事的な防衛施設を呼ぶ。戦闘拠点であるとともに食糧武器や資金の備蓄場所でもある。主要な城は、為政者や指揮官の住居であり、政治情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。

城の一部、施設を館や塔、城壁、城門と呼ぶのに対し、全体を指し示す場合には、城郭ともいう。敵との境界線に近い前線の要塞を「出城」と言い、主戦場を指す語にもなる。

ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と戦闘拠点の城砦(城塞、城館)とを区別する[注釈 1]。「城」という漢字自身、本来は、前者の城壁都市を意味する。しかし日本においては城壁で囲まれた城壁都市が普及しなかったこともあり、主に後者の城砦の意味で使用される。本稿でもこれを説明する。

城には、一般的に次の機能がある。ただし、規模によっては、どちらか一方を欠く城塞も存在した。
防衛機能
不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。この時、備蓄された装備や城壁などの施設が味方の居住性を高め、逆に敵の移動や視界、攻撃を妨害する効果が守備側に有利に働く。攻者三倍の法則などの経験則が唱えられたが守備側が籠城だけで敵を撃退することは難しく、基本的に援軍を待つための時間稼ぎである。また敵の侵入に備え、国境の監視などの役割も果たした。日本の山城などは、こちらの機能はあるが居住性は低いとされる。
居住性
城館は、多くの場合、領地を支配する支配者と結びついた。領主の生活の場であり、政庁となって領地支配の象徴としたり、敵地への勢力拡大の前線基地とする。延いては、領主の別荘として作られた城も存在する。都市を囲む城壁という意味では、領民の住居になった。このため生活に必要な施設が城内に全て揃えられた。しかしこの場合、農耕地は、城壁の外にある場合が多い。フランスのシャンボール城などは、居住性のみで防衛機能はない。

城は、軍事拠点を指す語だが、同様の目的で建設された近代以降の施設は、主に「基地」などと呼ばれる。この線引きは、明確ではなく習慣的である。
日本詳細は「日本の城」を参照古代山城の石垣(屋島城 - 香川県高松市)

広義における城(弥生時代環濠集落を含めた場合)の総数は約3万とされる[1]

日本の城は、古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。しかし、日本における城は古代と中世以降で使われている土木、建築技術や用途が多少異なる。現在までに、城(しろ)といわれているものは中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主などが日本国内の敵対する武力集団から守るための防衛施設である。

古代、日本では「城」を“き”と読み、「柵」の字も用いた。「柵」は主にヤマト王権が東北地方に設置した政治行政施設を併設する防御施設(城柵)を意味する。「城」は水城や大野城のような西日本に点在した古代山城や防壁の類いを意味する。これらは663年の白村江の戦いに敗れたヤマト王権が敵対した新羅からの侵攻を想定して、滅亡した百済から日本に亡命した人々の指導によって築かれた防御施設で、版築土塁の外郭城壁をもつ特徴があったが、後の中世以降の築城技術へとは継承されることはなかった[2]。「城 (き)」および「城柵」も参照

中世、戦国時代では小高い丘陵や山などに郭(曲輪)と言う平地をいくつか設け、その郭を柵や土塁で囲ったり、切岸と言って、斜面を急に加工して下の郭から上がりにくくしたり、堀切や竪堀という尾根を分けるように切った堀などで、他の郭からの侵入を困難にしたり、区分けをした。郭の入り口を小口(虎口)といい、その小口に門を設けたりもした(この時代は矢倉門や冠木門が主流)。大抵は、主郭(一の丸、本丸)、二の郭(二の丸)、三の郭(三の丸)という風に郭を名付ける。近世城郭の建築と水堀(松本城 - 長野県松本市)

戦国時代中ごろまで弓矢が中心だった古来の戦い方に、新たにポルトガルから伝わった火縄銃が加わったことで、塀や建物に防弾を考慮する必要が生じた。織田氏豊臣氏の台頭する時代から徳川氏が政権を樹立した江戸時代までの城は、こうした銃器に対する策として、内部に石や瓦礫を入れた分厚い土壁(太鼓壁)やおもに寺院に使われていた屋根、銃弾の届きにくい幅の堀、そして石垣が多用されることとなる。(土塁の方が銃弾や砲弾の衝撃を吸収しやすいが、傾斜を急にしにくかったり、威圧感が薄かったり、崩壊しやすく、城壁や櫓などを作るには不向きであるため多用されなかった。五稜郭はこの辺を考慮して土塁の城になったと考えられる。)城地の選択も、主力であった山や山岳からより利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになった。山城の麓に館を営んで生活や政務を行っていた城主や領主は、それまで有事のときにだけ篭っていた城内に生活の場所を移すようになった。この城郭の利便性の追求と建築の恒久化は寺院建築や住宅建築の特徴を多く取り入れ、日本城郭特有の天守のような重層な櫓の要素をもった楼閣建築を発生させた。このように、城の外観には戦うためだけのものというだけではなく、内外に主の権威をしめす目的も含まれるようになり、現在まで日本で見られるような独特な形式の城となった。
奄美・沖縄地方詳細は「グスク」を参照グスクの石垣と建築群(首里城。沖縄県那覇市)

鹿児島県の奄美諸島および沖縄地方の城は「グスク」または「スク」と呼ばれるものである。12世紀、沖縄地方に点在していた領主の「按司」(あじ)の居城で、城内に「ウタキ」(御嶽)や「ウガンジュ」(拝所)と呼ばれる沖縄地方特有の信仰施設を持つ。元々聖地のような土地を取り込んで築かれている。

三山時代に多くのグスクが築かれ、現在までに見られる多くのグスクはこのころのものである。土木や建築の技術、特に石垣は日本内地の石垣とは異なり、琉球石灰岩を加工した石積みの石垣であって外観も曲線をなして角さえも丸みを帯びている。また、中国や朝鮮半島で「馬面」(マーミェン)や「雉」(チ)と呼ばれる横矢がかりの出張りや、城門においては牌楼や石造のアーチ門(拱門)が見られるなど、日本内地の城郭建築と異にする箇所が見られる[3]。建築物では日本城郭の二重櫓や天守のような高層建築はなく、ぎっしりと建てられた舎殿のほか櫓としては門上の櫓のみである。
ヨーロッパ
歴史

城塞の技術は、15世紀 - 16世紀の火薬大砲の活躍によって大きく変化した。有史以来の防護設備、砦、城、要塞の基本は壁と塔であった。壁により敵の侵入を防ぎながら、塔から高さを生かした攻撃を行うもので、重力を利用すれば、弓矢の威力は増し、単なる石や丸太も武器として利用することができた。攻撃側は、壁を壊すための器具を工夫したが、いずれも大がかりで時間のかかるもので、守備側の優位は堅かった。

しかし、大砲、銃が使われ出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊されるようになった。このため要塞と城の機能は分離されるようになり、要塞は高さより、厚さを重視するものになり、永久要塞としては星型(稜堡式)要塞が、野戦要塞としては塹壕が主流となった。一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られるようになる。フランス語のシャトー(chateau、複数形chateaux)は日本語で城と訳されているが、荘園主によるものは城郭というよりはイギリスアイルランドにおけるマナー・ハウスに相当する。


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