城門
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城門(じょうもん)とは、城郭城壁をいう。鬼ノ城 西門(復元)
東アジア
日本
古代復元された朱雀門(平城宮

古代には中国の都城制に倣い、平城京平安京といった都市には城門が建設されていた。それが羅城門である。羅城とは外郭のことをいうが、古代都市の羅城門は大陸に見られるような長大な城壁に備え付けられたものではなく、むしろ門だけが孤立しており、両翼に数十メートル程度の築地塀が接続しているに過ぎなかったと考えられている。これは異民族侵入が少ない日本特有のものであり、羅城門自体に都市防衛拠点としての意味はなかったと考えられている。(→羅城門
中世・近世江戸城(皇居)の大手門

律令制崩壊に従い古代都城が姿を消していき、新たに軍事拠点として中世山城が姿を現す。

日本の城郭は大陸に見られるような高さ数十メートルに及ぶような城壁は持たず、高さ数メートルほどの土塁石垣に築地塀や土塀をかけただけであったので、城門についても中国の甕城や西洋の門塔のような石造の堅固な設備を備えてはいなかった。一方で山がちな地形や自然の河川に配慮した地取りを行い、や曲輪の配置を複雑にすることで城郭全体の防御力を高める方策を採った。その出入り口は「こぐち」と呼ばれた。虎口、小口とも書き、その名通り出入口を狭めたり、入り組ませることで寄せ手の侵入を阻むものであった。

城門は城内にいくつも建てられたが、それは単に曲輪と曲輪を隔てるだけの役割ではなく、寄せ手が直進できないように、場合によっては迷路のように配置をすることで、主郭、本丸へたどり着くことを困難にし、城郭の軍事的な価値を左右する意味を持っていた。防備厳重な門を備えた、城郭の正面口である大手虎口の門を特に「大手門・追手門(おおてもん)」といい、その裏口にあたる搦手口の門を「搦手門(からめてもん)」といった。また、巨大な大門になるとの番所や横に脇門や脇戸と呼ばれる門が設けられたり、門扉に潜り戸が設けられることもある。

明治維新に至るまで、城門の構造に変化は現れず、幕末に稜堡式城郭近代軍制が導入されるにいたり、日本独自の城門はその歴史に幕を下ろした。城郭の表門であった大手門の跡は現在でも地名にその名を残すところが多く見られる。
構造薬医門 大多喜城高麗門 金沢城枡形門 大阪城

中世以降の城における城門は、鏡柱、冠木(貫)、控柱、扉を組んだもので、これは上部の構造や細部を除けば近世城郭の城門でも同じように造られた[1]戦国期には、それまで中世の城郭に見られた簡易な掘立建物であったものが、礎石の上に恒久的に建てられるようになる。また重要とされる門の扉も板や桟を幾重に貼り付けて分厚く、さらにその上に金属の板を貼る(黒鉄門、銅門、筋鉄門)など頑丈に造られた。
冠木門(かぶきもん)

鏡柱に冠木を渡しただけの簡素な門。防御としては実用的でなかったため主に仕切りとして用いられた[2]
薬医門(やくいもん)

鏡柱と後方の控柱で大きな屋根を支える。寺の山門にもよく見られる形式。
高麗門(こうらいもん)

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以後に普及した門。屋根が小さく控柱にも個別に屋根がある[1]
櫓門(やぐらもん)

上部に櫓を載せた門。「二階門」という。もとは、『一遍上人絵伝』(鎌倉時代)に描かれた門のように、門の上に板で囲った台と櫓を載せたものであったと考えられている[1]。(詳細は櫓門を参照のこと。)
枡形門(ますがたもん)

名古屋城や徳川大坂城に見られるような高麗門と櫓門などを組み合わせ防御力を高めた門。

冠木門(池田城

櫓門 広島城

中国・韓国北京正陽門

古代中国では都城制が発達し、東西南北の城壁に城門が設けられていた。2008年には漢代長安、直城門の発掘調査が行われ、黄土をつき固めた版築工法によって作られた長さ20メートル、幅32メートルの城門であったことが判った[3]張衡の「西京賦」にあるとおり、長安城には東西南北に3門ずつ設けられ、それぞれの門が3つの門道を持ち、計36の門道があった。門道は幅約8mで当時の車幅4台分に相当していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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