城端町
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じょうはなまち
城端町
城端曳山祭

城端町旗城端町章
城端町旗城端町章

廃止日2004年平成16年)11月1日[1]
廃止理由新設合併
福野町、城端町、平村上平村利賀村井波町井口村福光町南砺市[1]
現在の自治体南砺市[1]
廃止時点のデータ
日本
地方中部地方北陸地方
都道府県富山県
東礪波郡
市町村コード16401-1
面積65.03 km2
総人口9,682人
(2004年8月1日)
隣接自治体福光町井口村上平村平村利賀村
町の木コシノヒガンザクラ
町の花ミズバショウ
城端町役場
所在地939-1800
富山県東礪波郡城端町1046
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度30分44秒 東経136度54分02秒 / 北緯36.51222度 東経136.9005度 / 36.51222; 136.9005座標: 北緯36度30分44秒 東経136度54分02秒 / 北緯36.51222度 東経136.9005度 / 36.51222; 136.9005

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城端町(じょうはなまち)は、かつて富山県東礪波郡にあった

2004年(平成16年)11月1日に城端町を含む7自治体が合併して南砺市が発足し、城端町は廃止された[1]
地理

山地と平野の双方を有し、自治体域の標高は1000m弱から100mまで幅広い。坂の町としても知られる。「越中小京都」と呼ばれる。

山:袴腰山、高清水山

河川:山田川、池川

湖沼:桜ヶ池、縄ヶ池、城端ダム湖

歴史

縄文時代 かなり大きな集落があった(西原遺跡
)。

奈良時代 東大寺の開墾田が越中の砺波に置かれた際に、砺波志留志(越中石黒氏の祖)が砺波郡に広大な墾田を持っていた(現在、南砺市岩木に前方後円墳 利波臣志留志の塚がある)。基本的に古代(飛鳥-白鳳-奈良-平安)には、集落としての遺構等は確認されていない。中世に入り源氏により武家政権が誕生することをきっかけに、鎌倉幕府の支配下に組み込まれ石黒党を中心とした在地領主連合の武士団が勢力を持ち、耕地の開発が進んでいった。いずれ、開発に伴って力をつけていた庶子家の自立化が進み、武士団の分裂も見られた。戦闘に備えて有力武士や土豪が山城や土塁、堀で囲まれた居館を構え、また、流通の拠点などの集落が発達していった。これが城端町の起源である。

1078年(承暦2年)越中国砺波郡に山城円宗寺領として石黒荘が立荘。平安末期には石黒三箇荘(10郷3地域)となり、領家織は分割伝領された。

1185年(文治元年)頃 -山田川を挟んで東側は鷹司家領直海郷、西側は仁和寺領山田郷として、領地および荘園として機能していた。

1333年頃(南北朝時代)-南朝方(天皇中心の政治で公家を重視)の流れをくむ関白太政大臣藤原氏の一族である伊東次郎右衛門が、後醍醐天皇が亡くなった後にこの地に定住し、山田郷の開拓に貢献した。以降その子孫は豪族として徳望あり、後の藩政時代にも加賀藩にわたり功績を残した。尚、現在、桜ヶ池(城端SA近く)のある南砺市立野原(旧城端町と福光町に跨ぐ地域)には今でも次郎右衛門の遺徳を祀った御堂が残っている(南砺市指定文化財)。 加えて、南朝時代の痕跡として南砺市上見の地名がある。「上見」は、昔はウワツミと称呼されていた。興国年間の南朝の論旨には「越中国上津見保」と記されており、ここが南朝方の領地であったことがわかる。上見城(跡地は南砺市指定史跡として登録)は、その際の居館として築城されたとの説ある。 また、長慶皇子(南朝、御醍醐天皇の皇子)の墓があったとされている。しかし、昭和22年宮内庁の許可を得て発掘されたが証となるものは出てこなかった。「次郎右衛門のお供が皇子に伴って来たのか、皇子の写経か何かを埋めて経塚を作ったのではなかろうか。」と推測されている。

1481年(文明13年)頃 -福光城主の石黒光義富樫政親の求めに応じて一向一揆と山田川(城端町を流れ、福野町で本流の小矢部川に合流する河川)の田屋河原で戦うも、敗北する(田屋川原の戦い)。尚、石黒氏らは安居寺に退去するも敗れ(石黒墳墓)、これを契機に医王山山麓の寺院施設群(香城寺惣堂遺跡)も攻め落ち、山田郷を含む一帯は本願寺の勢力が拡大し、一向宗の統治下となった。

1492年(明応元年)-善徳寺は加賀、越中、能登三国を管理下におく末寺総録所と定められた。

1559年(永禄2年)あるいは元亀3年(1572年) -信仰の厚かった土豪の城ヶ鼻城城主・荒木大膳の招請により(福光にあった一向宗)善徳寺を招致。 越中一向勢力の中心寺院とし、荒木大膳も参加した。

1573-1591年(天正年間) -上見城に篠村太左衛門が拠った。

1573年元亀4年) - 城端町(善徳寺門前町)が開町。以前より郷士の荒木善太夫が城郭を築いていたが、同年(天正元年)に善徳寺が城端に移転したことで門前町として発達したとされる[2]。最初「城が鼻」と称していたが「城鼻」となり「城端」と変化した[3]

1577年(天正5年)-畑氏によって城端(善徳寺門前町)で絹織物が始められた(城端絹起源伝記より)。 以前から五ケ山の村々で繭の生産と生糸の製造が行われていたが、絹織物が始められた事で城端(善徳寺門前町)へも繭が多量に運ばれ製糸されたと思われる。労働力の面では門前中町が賑わう事で付近の農村から流入した人が定住し人口も増えてきた。以後、越中南西部で最も大きな町となった。

1580年(天正8年)-佐々成政が織田信長から越中の切り取りを許されることを契機に家臣の河内才右衛門を城端城に配す。また、上見城城主の外交により成政の一揆掃討の戦火を免れた。尚、上見城城主の外交により一揆掃討の戦火を免れる。

1585年(天正13年)-佐々成政が秀吉に降伏し、この地を加賀藩前田氏が治めることになり城端城は廃城し、善徳寺が残る。以後、城端(善徳寺門前町)の絹織物が庇護され発展した。善徳寺は、加賀藩において懐柔策で利用され真宗東派寺院の触頭とされ、越中での国法・寺法の触頭としてさかえた。その後、江戸時代を通じて前田家は子女を幼少時に善徳寺を含めた旧領の有力寺院に縁女として送ることになる。

1649-1650年(慶安2-3年)-西新田町、東新田町が開墾され人が移り住み城端(善徳寺門前町)に編入された。

1650年(慶安3年) -善徳寺の六代顕勝が金沢材木町に掛所を建立する(その後移転し、現在では金沢小立野寺院群の中で、善徳寺として城端善徳寺の関連寺院として存在する。付近は旧地名で土取場城端町とされていた。)

1651年 (慶安4年) -加賀藩が年貢の増収を計り、年貢の納入に窮した農民が村を離れ城端(善徳寺門前町)へ移住した事で人口が急増した。  

1693年(元禄6年)-城端(善徳寺門前町)在住者数や職業などを詳細に記した「元禄品々帳」によると総戸数689戸の内375戸が絹織物関係の仕事に携わっていたと言う。城端(善徳寺門前町)で織られた絹の大部分は京都西陣に運ばれ、そこで精練染色の加工がなされ、加賀絹を扱う問屋で独占的に販売されていた。主な市場が上方なのでその地の市況が直ちに城端の好不況に影響した。

1757年(宝暦7年)-城端騒動起きる。この年は天候不順で不作であった。1000人を超える農民が集まり、米屋を襲撃した。藩の対応は素早く、その夜のうちに2、30人を逮捕し3人の中心人物を突き止めて磔にした。

1829年(文政12年) -絹の新しい市場の開拓に加賀藩も資金的に援助し、城端(善徳寺門前町)の絹織物業者がこの流通経路を利用して江戸でも城端絹が販売される事となった。

尚、江戸時代には、城下町と異なり武士階級といった巨大な消費者を持たない在郷町においては町人相互間や農村を対象とした取引が主であった(絹業を除く)。絹業によって蓄積された資本投資先は農村であり、時折加賀藩の改作法に抵触した。封建社会にあっては治者の唯一の収入源は土地の生産力であった時代であったため年貢の取り立ては厳しく、他から借銀してでも年貢を完納する必要があり、貸す余力がある者は町人に多くあった。加賀藩が農民に対して貸借することを禁じていたが、田地等の売買は実質上行われ、家屋敷田地を失った場合には町に出て生活するしかなくなった。こうして城下町とは異なる流れで、在郷町の商業資本が漸次農村に浸透していった。これにより、後に明治維新の際に城下町のように武士の失業に伴い経済が落ち込んだ金沢城下とは異なり、近代化の流れにのりやすかったことがうかがえる。

1875年(明治8年)-善徳寺縁女(最後の加賀藩主 前田慶寧 の妹洽姫)が離縁させられる(なお、江戸時代を通じて前田家は子女を幼少時に旧領の有力寺院に縁女として送っていたが、1870年代後半には相次いで離縁させて摂家・宮家などに嫁がせており、同年、娘の慰姫も井波の瑞泉寺から離縁させられている)。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、礪波郡城端町、能美村山田村南山田村及び大鋸屋村が発足する。


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