城崎温泉
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城崎温泉
温泉街の中心を流れる大谿川
温泉情報
所在地兵庫県豊岡市城崎町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分40秒 東経134度48分0秒 / 北緯35.62778度 東経134.80000度 / 35.62778; 134.80000座標: 北緯35度37分40秒 東経134度48分0秒 / 北緯35.62778度 東経134.80000度 / 35.62778; 134.80000
交通

鉄道: JR山陰本線城崎温泉駅下車すぐ

高速バス: 大阪市神戸市から全但特急バスで城崎温泉駅または城崎温泉下車

飛行機: 大阪国際空港から30分の但馬空港から全但バスで40分

泉質塩化物泉
泉温(摂氏)37 - 83 °C
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地図

城崎温泉(きのさきおんせん)は、兵庫県豊岡市城崎町にある温泉平安時代以前から知られる長い歴史を持つ。江戸時代には「海内第一泉(かいだいだいいちせん)」と呼ばれ、今もその碑が残る。有馬温泉湯村温泉とともに兵庫県を代表する温泉でもある。
泉質

食塩泉源泉温度37 - 83

全ての源泉は、1972年に作られた集中配湯管理施設に集められて、平均温度を57度に安定させてから、町内に張り巡らされている配管を通じて、各外湯・旅館に送られている[1]
温泉街夜の温泉街

7つある外湯めぐりを主とした温泉である。外湯の筆頭とされる「一の湯」は江戸時代に「新湯(あらゆ)」と呼ばれていたが、江戸時代中期の古方派(こほうは)の漢方医香川修徳(香川修庵)が泉質を絶賛し、「海内一」(=日本一)の意味を込めて「一の湯」に改名した。また「さとの湯」は正式名称を豊岡市立城崎温泉交流センターといい、浴場施設及び研修室が指定管理者制度による公設民営、その他の施設が市営であり、施設内に豊岡市城崎総合支所温泉課がある。温泉郷に設置されている7ヶ所の外湯では観光客向けに当日最初の入湯者に一番札を配布している。

城崎温泉駅前から7つの外湯につながる大谿川(おおたにがわ)沿いに温泉街を形成し、川べりにはが植えられている。大谿川が流れ込む円山川本流沿いに所在する宿泊施設もある[2]。なお、大谿川に架かる橋梁群は平成18年度(2006年度)に兵庫県の景観形成重要建造物に指定された。日本海岸近くの温泉であり、夏は海水浴、冬はカニ料理に人気がある。城崎温泉駅にも、さとの湯(駅舎にある温泉)や足湯飲泉場がある。足湯や飲泉場が温泉街各所にある。愛宕橋

城崎温泉では浴衣下駄履きが正装と言われており、2007年時点、城崎温泉のほとんどの旅館は、寝間着としても用いる旅館内用の浴衣とは別に、温泉街を出歩くための浴衣も用意している[3]。温泉街には「ゆかたご意見番」という掲示をした店が、2007年時点、約30軒存在し、浴衣が着崩れたりした時に対応してもらえる[3]。浴衣の模様から旅館が分かると、その旅館の下駄を差し出す下足番もいる。

木造3階建ての旅館が連なり、豊岡市が景観条例を適用して保護している[4]。2019年、市の公募事業として開業した商業施設「さんぽう西村屋本店」も、街並みとの調和を重視して木の外壁を採用した。旅館・ホテル数は2019年時点で74軒。客室数20未満の小規模施設が多く、家族経営であるため、個人客を重視してきた。2018年の観光客数は約63万人で、このうち外国人が約5万人。個人旅行者が多い欧米やオーストラリアから訪れる旅行者の比率が約3割と、他の温泉地(1割程度)より高い。2泊以上の長期滞在者を増やすため、上記の商業施設や城崎国際アートセンターを含めた温泉街全体の整備や、「本と温泉」プロジェクト(後述)のような文化活動が行われている[5]

なお、近くには城崎ロープウェイが運行されており、城崎温泉郷の守護寺とされている温泉寺や、展望台がある大師山の山頂付近へと容易に行くことができるようになっている。

温泉街俯瞰

一番札

駅通り

湯の里通り(右手前は「御所の湯」)

歴史一の湯と「海内第一泉」の碑

舒明天皇時代の629年、コウノトリが傷を癒していた事により発見されたとの開湯伝説がある。奈良時代初期の717年養老元年)、この地を訪れた仏教僧侶の道智上人が、難病の人々を救う為に千日間、八曼陀羅経というお経を唱え続けた。その結果、720年(養老四年)に満願成就して霊湯が湧き出したのが城崎温泉のはじまりと伝えられている[6]。城崎温泉街7つの外湯の一つ、「まんだら湯」は、このことから名づけられた[7]。道智上人が道智は温泉寺開山でもある。温泉寺は以後、城崎温泉を象徴する存在となる。

江戸時代の温泉番付によると西の関脇(最高位は大関)にランクされる(西の大関は有馬温泉)。江戸時代の外湯の元になった湯壷は9つあった。学徳兼備で江戸期における「但馬弘法大師」と呼ばれた弘元上人但馬高野満福寺第50世・第52世)は城崎温泉の老舗旅館・山本屋の出身[8]幕末桂小五郎新選組に追われて城崎温泉に逃げてきたことがあった。江戸時代の城崎温泉は遊技場のほか、鍋焼き、ぜんざいうどんそばなどの食べ物屋があり、各地から果物、魚、鳥が運ばれ、フグタコも手に入った。貸し物屋では三味線すごろく琵琶、さらにまで扱っており、客が帰るのを忘れさせるほどもてなした。城崎温泉には近郊の藩主や藩士が多数訪れ、賑わいを見せた。明治43年の絵葉書

日露戦争の折は傷病兵のための寮養所を設置した。そのため明治維新からずっと続いていた深刻な不況もなくなった。明治以後も文人墨客に愛され、『城の崎にて』を書いた志賀直哉有島武郎をはじめとする多数の文豪が来訪した。

この頃、内湯問題が本格的になる。1925年(大正14年)の北但馬地震で町は全焼。当時温泉にいた入浴客約1200人のうち、助かった者は線路沿いに逃げて救援列車で京阪神方面へ避難した[9]。翌月には早くも82人の客が城崎を訪れていて、湯が沸いている限り客足は絶えなかった。現在の和風木造3階建ての町並みの多くは震災の復興の時の建物か、その時の建物に由来する。震災まで旅館には内湯がなく、客は温泉街の各所にある外湯に通っていた。1927年(昭和2年)に三木屋旅館(『城の崎にて』ゆかりの宿)が震災復興の際に敷地内で掘り当てた泉源を利用して、城崎初の内湯を新築の旅館内に設置したところ、温泉地の伝統を壊すものとして、裁判沙汰になり(城崎温泉内湯訴訟事件[10])20年以上の紛争に発展する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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