城多二郎
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しろた じろう
城多 二郎
『春はご婦人から』(1932年)。
右は井上雪子
本名城田 二郎(しろた じろう)
生年月日1902年7月
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区
死没地 中華民国 上海市(現在の中華人民共和国
身長172.7cm
職業元俳優、元映画監督
ジャンル劇映画現代劇サウンド版サイレント映画トーキー
活動期間1931年 - 1936年
配偶者有
主な作品
春は御婦人から
『光輝満州国』
『都会の感傷』
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城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代[1][2])は、日本の元俳優、元映画監督である[3][4][5][6]。本名は城田 二郎(読み同じ)[3][4][5]鈴木傳明岡田時彦高田稔松竹蒲田撮影所のスターが連袂退社するに伴い入社、二枚目俳優として主演を務めていたが、短命に終わった[5][6]
来歴・人物

1902年(明治35年)7月東京府東京市豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる[3][4][5][6]。出生地についてはアメリカ合衆国ハワイ州の説もある[7]

幼少期に渡米し、現在のハワイ州ヒロにあった私立学校ヒロ・ボーディング・スクール(Hilo Boarding School、現存せず)に進学する[7]。同校卒業後、日本に帰国して慶応義塾大学に進学するが、この頃から身長173cm・体重67.5kgという体格を活かしてスポーツマンとしてならし、特に水泳と柔道に優れていた[3][4][5][6][7]。その為、スポーツ界では「ジロマン」または「二郎まん」と仇名され、特に現在の東京都港区三田や東京都中央区銀座界隈では、その名は恐怖の対象であったという[1][2][3][5][6]

大学卒業後、家庭に入ったのち帝國生命保險會社(現在の朝日生命保険)大阪支社の社員として実業方面で活躍していたが、1931年(昭和6年)9月に松竹蒲田撮影所のスターであった鈴木傳明岡田時彦高田稔、それから渡辺篤横尾泥海男吉谷久雄関時男月田一郎山本冬郷木村健児らを誘って不二映画社の創立に参加するに及び、松竹では江川宇礼雄清水将夫らを幹部・準幹部俳優として昇格している中で、城多は同年10月1日、近藤伊与吉(1894年 - 1944年)の招聘により松竹蒲田撮影所に電撃入社する[1][2][3][4][5][6][7]


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