城塞_(小説)
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『城塞』(じょうさい)は、司馬遼太郎歴史小説。天下無双の城塞大坂城を舞台に、徳川家康豊臣家の最終決戦となった大坂の陣を描く。

週刊新潮』誌上で、1969年(昭和44年)7月から1971年(昭和46年)10月まで連載された。
概要

関ヶ原の戦いを扱った『関ヶ原』の続編。徳川家康の生涯を扱った『覇王の家』と合わせて「家康三部作」と呼ばれることもある。

司馬は大坂の陣を描くにあたって当初は豊臣家を主題に据え、殊に秀吉の世子・秀頼の生母で大坂城の実質的な城主であった淀殿にスポットを当てることを考え、『女の城』などというタイトルも構想していた。しかし史料を調べるうちに下層民からの成り上がり者の秀吉が自らの権勢を示すために造り上げた空前の大城塞である大坂城に関心が移り、大坂の陣の主役はあくまで大坂城であるとの考えに至り、『城塞』をタイトルにしたと語っている。そのため、本作には後に甲州流軍学を創始する小幡勘兵衛が狂言回しとして登場するものの、主役はあくまで大坂城である。

司馬は、西洋人も「コンスタンティノープル以東で最大の城」と感嘆した大坂城の威容を、見る者を圧するその魔術的陶酔感により徳川家からの政権奪取も可能と思わせ、多くの牢人達を豊臣の旗の下に参集させたと評している。歴史を動かしたのは世間に対して嬰児のように無知蒙昧な秀頼や淀殿ではなく大坂城という巨大建造物であり、もしも豊臣家が大坂城のような城を持たなければ家康にさほどに警戒されることもなく、織田信長亡き後の織田家のように徳川政権下においても小大名として存続することができただろうとも評している[1]
あらすじ

関ヶ原の戦いを征して天下の実権を掌中に収めた徳川家康。しかし天下の主から一大名に転落したというものの、豊臣家は大坂になおも健在であった。亡き太閤秀吉の遺児・秀頼は、亡父の築いた東洋一の大城塞・大坂城の中で日一日と成長し、幼童期を脱しようとしていた。久しく対面していなかった秀頼と京都二条城で会見した家康は、その溌剌とした若さと衰えぬ市井の人気に危機感を覚え、ついに豊臣家を滅亡させることを決断する。

難攻不落の城塞を攻略する要として間者役に抜擢されたのは、旧武田家の遺臣団出身の小幡勘兵衛であった。武芸・軍略に対する探求心の強さから徳川家を辞して牢人し、若年の頃から全国を流浪して研鑽を重ねたその能力を買われた勘兵衛は家康のこの命を快諾し、未曾有の大戦を演出するべく発憤する。やがて大坂城下で兵法道場を開いて名を上げた勘兵衛は大坂城に客分として潜り込むことに成功するが、しかしその潜入を待つまでもなく城内にはすでに多くの間者が巣くっていた。秀頼の正室である家康の孫娘・千姫につき従う徳川家の家臣団は一大諜報団として大坂城で暗躍しており、彼らは城の内情を逐一家康に報告していた。さらに七手組(豊臣家の親衛隊)を始めとする豊臣家の重臣達の間にまでも内通者がいた。大坂城の城主は名目上は秀頼であったが飾りものの大将にすぎず、実質的な権力はその生母・淀殿が握っていた。城の内政・外交は共に政治も軍事も解らない彼女の言いように振り回されている有様であり、少なからぬ重臣達が豊臣家の行く末を見限り、時勢は徳川にあると考えていたのだった。勘兵衛がとりたてて間者として策動などせずとも、すでに城塞の屋台骨は充分に腐蝕していた。

すでに豊臣の世は終わったと考えているのは諸国の大名達も同様だった。家康とその謀臣達が次々と放ってくる謀略に踊らされ、大坂方は為す術もなく開戦へと追い込まれるが、その呼びかけに応じて大坂城に参集した大名は皆無であった。大坂方はやむなく真田幸村など関ヶ原で領地を失った敗戦大名や、後藤又兵衛ら行き場のない牢人達をかき集め、冬の陣の戦端を開くこととなる。諸大名からなる圧倒的な大軍を率いて大坂になだれ込んできた家康に対し、豊臣方は寡兵をもって応戦しそれなりに奮戦するが、豊臣家の中枢はこの期に及んでも総大将すらまともに決められない有様であり、兵達の働きも空しく大坂城は徳川方に包囲されてしまう。それでも幸村ら有能な将達の活躍もあって豊臣方は善戦し、戦局は決して悲観的なものではなかった。さらには天下無双の城塞には籠城戦という選択肢もあり、長期間の籠城に耐えることによって政局の変化を期待することも可能であった。

が、正攻法での落城は困難ということは家康も充分に理解していた。堅牢な大城塞を落とすには調略による他ないと考えた家康は、大坂城が淀殿によって壟断されていることに目をつけ、大筒で彼女の住まう御殿近辺にさかんに砲撃をしかける。淀殿の心胆を寒からしめることを考えたこの狙いは当たり、悩乱するように怯えた淀殿は籠城に持ち込むべきという反対論を押し切って家康の提示してきた講和を受けさせる。講和の条件は外濠の埋め立てであったが、しかし家康は約束を無視して外濠のみならず内濠までも強引に埋め、城壁もことごとく破壊して、大坂城は裸同然の状態にされてしまう。家康の真意はあくまでも豊臣家を根絶やしにすることにあり、和平は大坂城の防御力を削ぐための策略に過ぎなかった。程なくして家康は政情を再度の開戦へと誘導し始め、再戦を覚悟した豊臣家も今一度戦の準備を始める。

一度大坂城を辞去した勘兵衛も再入城するが、ところが思わぬことから間者であることが露見して大坂城を出奔しなければならなくなる。徳川家に帰参することとなった勘兵衛はまずまずの禄を持って迎えられることを約束されるが、その胸の底にはやりきれない失意がわだかまっていた。己の器量を強く自負する勘兵衛は、徳川方から間者としての仕事を受けながらも豊臣方に勢いがあれば力を貸して天下を旋回させようなどと密かな野心を抱いていた。あわよくばそれをきっかけに世を戦国乱世に戻し、半生をかけた軍略陶冶の流浪の中で夢想してきた天下取りの夢を実現させようなどと考えることもあったが、大坂城の内情は惨憺たるものでありそのようなことは到底望めるものではなかった。事ここに及んでは豊臣家の滅亡は疑いようもなく、来るべき戦によって徳川政権の礎は確固としたものとして確立するであろう。それはすなわち戦国の世の終わりを意味し、勘兵衛を始めとする乱世の下で身を立てることを望んだ者達の時代の終焉が来たことを意味する。もはや乱世が戻って来ることは二度とあるまい。天下人にも大名にもなれず、少壮の頃から諸国を回って研鑽を続けてきた挙げ句がこの結果かと思えば口惜しくもあったが、しかしいよいよ風雲急を告げる政情の下、目前にまで迫った戦いに従軍しないという選択肢は取りようもない。

大坂城からの退去を突きつけられた豊臣家はついに開戦を決断し、夏の陣の火蓋が切られた。家康は再び雲霞の如き大軍を従えて大坂に乗り込んで来た。外濠・内濠を埋められた豊臣方はもはや籠城は不可能と判断し、家康の首級を上げることのみに望みを賭けて野外戦に打って出る。豊臣兵達は死を決して奮戦するが、幸村・又兵衛などといった名将達も次々と討ち死にして次第に戦線を維持できなくなり、大坂城は完全に包囲されてしまう。本丸以外の濠を埋め立てられ、城壁も破壊された裸城では到底防御のしようもない。城内の誰もが敗北を痛感した時、御台所頭の寝返りによって本丸の台所から火の手が上がった。

城内の一角から上がった火の手はすぐさま広まり、たちまち本丸全体が炎に包まれた。一番乗りの功名を得ようと多くの徳川兵が城門に殺到する中、その喧噪の渦中には勘兵衛の姿もあった。紅蓮の炎に包まれ炎上する天守閣を見ながら、勘兵衛は「夢、醒メタリ」としきりにつぶやく。応仁の乱以来、百五十年の乱世の中で立身を望んで勇躍した者達の夢が、今ここに醒めようとしていた。同様に時代の魔力に追い立てられ、半生の間諸国を流浪した勘兵衛の夢もここに潰えようとしていた。豊臣氏の命脈が尽きたことで徳川氏の天下は盤石のものとなろう。己の大望を潰されながら、その徳川の天下の下で生きるために落ち武者を狩り立てて少しでも功を拾おうとしている我が身の浅ましさはどうであろうか。

稀代の大城塞の消失と共に、戦国の夢も幻のように消え去った。
主な登場人物
徳川方
小幡勘兵衛
本作の狂言回し。家康が武田氏滅亡後に召し抱えた遺臣団の出身で、少年期は徳川秀忠に児小姓として仕えていた。が、武芸・軍略に対する関心が強く暇を乞うて浪人し、日本中を流浪して修練・研鑽を重ねた。その能力を買われ、大坂城攻略の間者として抜擢される。間者として冷徹に徹するべきでありながら情が強く、斜陽の豊臣家に憐憫を感じたり義侠心に駆られるなど、時折自分の立場を忘れたような行動をとることもある。また、己の才気に強烈な自負心を持ち、あわよくば豊臣家に手を貸して乱世に戻し、自身が天下を狙おうと密かな野心を抱いていた。天下人たる器量の持ち主は家康以外には自分しかいないと信じ、徳川幕府ならぬ「小幡幕府」をうち立てるという途方もない大望を夢見ていたが、豊臣家の内情が話にもならないほど惰弱であったため、結局夢想に終わった。夏の陣開戦直前に間者であることが露見して大坂城を出奔。夏の陣では徳川方の先鋒井伊直孝の部隊に所属して出陣した。大坂の陣終結後は徳川家の旗本となり、旧武田家に伝わる武田信玄の軍法をまとめた「甲陽軍鑑」を聖典とする日本における軍学の草分けである「甲州流軍学」を創始する。なお、甲陽軍鑑は江戸時代になって勘兵衛が偽作したという説があるが本作ではこの説を採っており、甲州流軍学についても「多分に空想的な軍学」と評されている。
徳川家康
関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き、天下の実権を握った江戸幕府初代将軍。現在は将軍職を息子の秀忠に譲り駿府城で隠居をしているが、政治的実権はその手に保ち続けており、「駿府の大御所」の敬称と共に畏怖されている。すで老齢に達した自身と裏腹の秀頼の溌剌とした若さに危機感を抱き、卓抜した政治的計算力と謀略能力を奮って豊臣家を滅亡の淵へと追い詰めてゆく。百戦の経験に裏打ちされたその奸謀の前には、豊臣家はさながら手をひねられる赤子のようなものでまったく相手にならない。老境に入ってもその頭脳の冴えはまったく衰えを見せず、些細な日常の挙措動作の端々にまで政治的効果を狙った演技が自然に出るなど、もはや骨の髄まで政治感覚が染み込んだ筋金入りの老練政治家。
徳川秀忠
家康の後継者で江戸幕府の現将軍。真面目で謹直な人物だが、政治・軍事に関する能力は凡庸で甚だ心許なく、家康に先行きを危ぶまれている。大坂の陣において、家康はこの秀忠を豊臣家に対して強硬な姿勢をとる鬼将軍として演出し、自身はそれを諫めようとする寛仁な老翁として振る舞うことによって、秀忠の威望を高めると同時に主戦論と和平論とに分かれていた大坂城内に揺さぶりをかけようとした。
本多正純
家康の謀臣。家康が少壮の頃から寵用した謀臣・本多正信の息子。父同様に謀略の才に恵まれているが、鷹匠から取り立てられた父と違って生まれついての大名であるため周囲に対してやや傲慢で横柄な態度をとることが多い。大坂城を陥落させるための間者として勘兵衛に目をつけた人物。
板倉勝重
家康の信任の篤い譜代大名。江戸幕府の京都所司代を勤め、上方の情報を逐一家康の下へ送っている。極めて優秀な能吏で唐突に出来した変事も万事そつなく処理し、その行政手腕の鮮やかさは徳川家中屈指の知恵者と評判が高い。
藤堂高虎
伊予半国を治める大名。保身術に長けており、秀吉によって大名に取り立てられながら秀吉の死の直前から早くも豊臣家の行く末を見限って家康に近づき、以後家康の手足となったかのように率先して豊臣家切り崩しの策動に加担した。


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