城内平和
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カイザー・ヴィルヘルム2世 / 大戦勃発に際し「城内平和」を宣言。 社民党党首エーベルト / 「城内平和」支持で党をまとめた。 共同党首ハーゼ / 党を反戦でまとめることに失敗し、開戦後に独立社会民主党を結成。 K・リープクネヒト / 社民党所属の国会議員で戦時公債にただ一人反対。

城内平和(じょうないへいわ、:Burgfrieden / Burgfriedenspolitik)とは、第一次世界大戦中のヨーロッパ各国(特にドイツ)において、社会主義政党を中心とする野党政府の政争や労働者資本家階級対立が一時停止され、戦争遂行のために協力関係が結ばれたこと、あるいはそのような政策を意味する。原語で「ブルクフリーデン」とも呼ばれるほか、日本語では「域内平和」と訳す場合もある。
目次

1 概要

2 経緯

3 影響

4 一般的用法

5 関連項目

6 外部リンク

7 参考文献

8 注釈

概要

「城内平和」の語は、もともと中世ドイツにおいて「城壁内での私闘禁止」を意味する語であった[1]。しかし1914年8月4日第一次世界大戦勃発に際してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世帝国議会本会議において「余は党派なるものをもはや知らない。ただドイツ人あるのみだ」という演説を行い、これが「城内平和」演説と称されるようになり[2]、また議会内の最大勢力であった社会民主党が皇帝およびドイツ帝国政府の戦争遂行政策を支持し他党との抗争を停止すると、そのような政治的休戦状態(および社会主義者・労働者と政府との協力関係)もまた「城内平和」と称されるようになった。
経緯

20世紀初めヨーロッパの社会主義者たちは、間近に迫っていると見られていた列強間の大戦争を国際的な共同行動によって阻止することを考え、社会主義者の国際組織である「第二インターナショナル」でそのための行動計画を協議していた。バルカン戦争が勃発した1912年にはバーゼルで第二インターの臨時大会が開催され、開戦の暁には各国のすべての社会主義政党が連帯行動をもって「帝国主義戦争」への反対闘争を決行するとした「反戦宣言」を全会一致で決議した。しかし実際に第一次大戦が勃発すると、第二インターの中で大きな影響力を有していたドイツフランスイギリスでは社会主義政党の多数派が労働者とともに、各国政府の戦争遂行政策を支持し大戦期間中の"政治的休戦"を取り決めたのである。この結果、第二インターは機能停止に陥り事実上崩壊した。

特にドイツでは、「城内平和」政策に基づき労働組合ストライキを自粛、社会民主党は議会において政府の戦時公債発行案に賛成し、諸政党は政府およびその戦争遂行政策に対して批判を行わないよう協定していた。また、Johann PlengeやPaul Lenschらがイデオローグとなり、「戦争社会主義」「民族共同体」「国家社会主義」といった概念で正当化していった。こうした政治的選択の背後にある社会民主党側の事情としては、主流派を中心に党員・党所属議員の間で愛国的気分が広範に浸透していたこと、「ヨーロッパの憲兵」として知られた敵国ロシアツァーリズムが大戦を通じて勢力を拡大していくのに対しカイザーの立憲的専制政治以上に脅威を感じていたこと、さらに戦争協力と引き替えに国内の民主化が進展し大戦後の党勢拡大を期待したこと、などが挙げられる。またフランスでは開戦に際して労働総同盟が国土防衛を主張、また大統領ポワンカレの呼びかけに応え、社会主義派の下院議員が戦時公債に賛成した。このことからフランスでは、ドイツと同様の労働者・社会主義者と政府との協力関係を「ユニオン・サクレ(神聖なる同盟)」と称した。イギリスでも労働党が政府の戦時公債案・新兵募集に賛成した[3]

しかし交戦国の社会主義者の中には、以上のような政治的休戦や戦争協力政策に反対する人々も全体から見れば少数ではあるが、存在していた。ロシアではプレハーノフを除くほとんどの社会主義者が戦争に反対した。ドイツでも、議会で戦時公債に反対票を投じ反戦的言動で投獄されたK・リープクネヒトを筆頭に、彼とともに行動したR・ルクセンブルクC・ツェトキン、および、やや立場は異なるがH・ハーゼらによって社会民主党の反戦的少数派が形成された。彼らはスパルタクス団独立社会民主党に結集し、エーベルトら党主流派=「城内平和」派に反旗を翻した。


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