城之内 邦雄基本情報
国籍 日本
出身地千葉県佐原市(現:香取市)
生年月日 (1940-02-03) 1940年2月3日(84歳)
身長
体重177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1962年
初出場1962年4月7日
最終出場1974年7月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
千葉県立佐原第一高等学校
日本麦酒
読売ジャイアンツ (1962 - 1971)
ロッテオリオンズ (1974)
コーチ歴
ロッテオリオンズ (1974 - 1976)
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城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 小学校時代は陸上部に所属し[1]、中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部[2]。進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける[3]。3年次の1957年にはエース、四番打者として夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会準決勝に進出するが、成田高に敗れ甲子園出場はならなかった。 1958年に高校を卒業し、佐原一高の先輩である北川芳男の誘いにより、日本麦酒に入社。最初の2年間は北川と高橋栄一郎の影に隠れて出番がなかったが、1960年の産別対抗で16回2/3を投げて19奪三振、自責点0と好投し頭角を現す[4]。 1961年に高橋がプロ入りしたことから城之内はエースとなり、サン大会で38回を投げて防御率0.95、都市対抗でも勝ち星を挙げた[5]。 同年のシーズンが終了すると、社会人1の速球投手[6] として巨人と大洋を始め11球団から勧誘を受け、全球団の監督が城之内の実家に押し寄せたともされる。特に1960年から2年越しで日参するなど大洋から最も熱心に勧誘を受け、城之内も恩義を感じていたというが[7]、結局同年11月11日に巨人へ入団[8]。 1962年の春の宮崎キャンプでは投手陣の中で最も球速があり、城之内が投球練習を始めると、藤田元司・堀本律雄・中村稔ら主力投手が投げるのをやめてしまうほどであったという[9]。オープン戦では7試合に登板して4勝0敗、投球回数33回を自責点1点に抑え、新人ながら開幕投手に抜擢される[6]。開幕戦となる4月7日対阪神戦(後楽園)に初登板初先発し好投するも、1-2で惜しくも敗れた[6]。なお、その後も新人の開幕投手は1984年のヤクルト・高野光まで22年間出現しなかった[10]。城之内は春のキャンプから肩の調子が悪く、開幕から3連敗するなど5月下旬まで2勝5敗であったが、5月末から肩が復調すると1ヶ月で5勝を稼ぐなど[11] 前半戦で8勝を重ね、後半戦は16勝と快調に飛ばし[9]、24勝12敗、防御率2.21(リーグ8位)で新人王を獲得する。 1963年は17勝と伊藤芳明(19勝)に次ぐ勝ち星を挙げると、以降18勝、21勝、21勝と入団から5年で101勝を挙げる。
経歴