この項目では、日本における都市の形態について説明しています。その他の用法については「城下町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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波賀城と城下町(兵庫県宍粟市)犬山城の城下町(愛知県犬山市)和歌山城の城下町(和歌山県和歌山市)
城下町(じょうかまち)とは、日本における都市の形態の一つ。領主の居城を中心に成立した都市である。 江戸時代以降は、必ずしも城が中心とは限らず、戦闘を想定しない行政施設としての陣屋を中心とした陣屋町もあるが、広義ではそれらも含めて城下町と呼ぶ。 城下(じょうか)とも呼ばれ、近世以前はこの呼称が一般的であった。 成立は戦国時代に始まる。城の防衛施設としての機能と、行政都市・商業都市としての機能を持つ。近世城下町発展の最大の功労者は織田信長で、本格的な兵農分離を意図し武士を城下に強制移住させるとともに、市街に楽市・楽座を設けて商工業の発達を活発にした[1]。一方で信長の兵農分離については疑問視する指摘もある[2]。 豊臣秀吉は豊臣政権の政治経済の中心となった大坂城下は富の集積地となって殷賑を極め、江戸時代に入っても商業の中心地であり続け天下の台所と言われた。 世界各国の大半の城郭都市は、城壁に囲まれた中に城と街が存在する。それに対し、日本では堺や寺内町のような堀と土塁で囲まれた都市や町は早くから存在していたものの、初期の城下町では領主の居城のみが堀と城壁に囲まれ、街自体は城壁には囲まれていなかった。しかし、日本においても城下町が発展すると、経済的および政治的価値が上昇し、それにともない城下町を戦乱から防護する必要性が生じた。そのため町を堀と塁壁で囲む総構えの構築が増加してゆき、次第に城郭都市化していく傾向をみせた。 江戸時代になると、防衛都市としての色合いが薄くなり、幕府や藩による政治・経済の中心としての色が濃くなった。江戸時代を通じて戦争がなかったことと、大半の藩主家が領主の交代を経験しており、(石高は別として)土地自体への執着が薄かったことが理由として挙げられる。また、城砦としての防衛能力を重視した場所は必ずしも交通の便が良いところではなく、交易都市の色彩を強めるにつれ城が放棄され陣屋などに行政中心が移ったケースも多い。 約300ほどあった城下町も人口の規模は様々で金沢、仙台藩のように武士町人合わせて約12万の大規模城下もあれば、東北亀田藩のように4千人程度の小城下までと多様で、多くの場合、1万人前後である[3]。 付近を通る幹線道路のコースを、城下に通じるように付け替えることにより往来が城下を通り、商工業を活性化させる効果を狙っている。
概要
歴史
構造姫路古地図