型式学的研究法
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オスカル・モンテリウス(1913年撮影)

型式学的研究法(けいしきがくてきけんきゅうほう、英語: typological method)とは、考古学における研究法のひとつであり、考古資料とくに遺物形態材料技法装飾などの諸特徴によって分類された型式(type)を、年代的な変遷をたどり、地域的な相互比較をおこなって、その遺物(型式)の時間的ないし分布上の位置関係、さらに型式相互の関係性を明らかにしていく研究の方法であり、単に型式学(typology)ともいわれる[1]。この方法は、19世紀後半にスウェーデン考古学者オスカル・モンテリウス1843年-1921年)らによって、北欧青銅器文化の研究などをもとに提唱されたのち、急速に世界的に普及していったが、これについて、スウェーデンの考古学者ニルス・オーベリ(スウェーデン語版)は、「先史考古学は、この研究法の確立によってはじめて科学になった」との評価をくだしている[1][2]
概要

発掘調査などによって生ずる遺物や遺構遺跡を主要な研究対象とする考古学においては、考古資料(遺物、遺構および遺跡)を分類し、それらに時間的・空間的に正確な秩序をあたえることが研究の基本的な手立てとなる[1][3]。検出される考古資料は膨大な数量におよぶが、個々の資料には相互に同質的な部分と異質の要素があり、それをさぐりだし、検討を加えることによって、これらの人工物をつくり、それを残した人間活動のありようとその時間的・空間的な広がりを推しはかる必要がある[3]。それゆえ、さまざまな人工物を時間的・空間的に位置づけ、その資料化をはかる型式学的研究法は、考古学における基本的な方法論のひとつとして重要である[1]
型式学の提唱

この方法は、19世紀中葉にイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィン(1809年-1882年)が唱えた進化論から強い影響を受けて生まれた[4]。英国考古学の先がけとなったジョン・エヴァンス(1823年-1908年) やen陸軍大将(1827年?1900年)は、人類の文化もまた動物植物と同様、進化を遂げていると考え、遺物の形態的進化の図式を考えた[4]

遺物の時間的な先後関係や相対年代判定のための方法としての型式学的研究法は、スウェーデンの考古学者オスカル・モンテリウスとその同僚ハンス・ヒルデブラント(スウェーデン語版)によって、1870年代に相次いで発表された[注釈 1][注釈 2]

それにしても、人はものを作るときに進化の法則におかれ、その法則に支配されるがままになっていることは、驚くべきことである。思うがままの形を作ることができないほど人間の自由は制限されているのだろうか[7]

モンテリウスはこのように述べて、人間は、何の制約もなく、勝手気ままにモノを作りだすことは不可能であり、その作品は製作者のおかれている技術的・社会的諸条件から何らかの制約を受け、一定の発展の法則(遺伝変異選択)にしたがって変化するという認識を示した[3]【図A】チェスケー・ブジェヨヴィツェリンツを結ぶ馬車鉄道(1825年-1857年)の1等客車 初期の蒸気機関による鉄道客車によく似ている。

1863年ストックホルムスウェーデン国立歴史博物館に職を得たモンテリウスは、ヨーロッパ各地の博物館の収集品を見てまわるうち、遺物の形態差や装飾の違い、そしてまた、それらが生物が進化するように時系列に沿って変化していることに気づいた[4][8]。いわば、人工物がまるで生物の種のように進化していることを「発見」したのである。そして、ヨーロッパの考古学界が、従来重大な関心をはらってきた人類学の領域、あるいは旧石器時代に対してよりも、新石器時代以降に関心を向けつつあったとき、言い換えれば、その関心が進化論的な図式よりも各国の国民史に移ろうとしたときに、遺物の形態進化に目を向け、考古学における型式学的研究法の採用を方向づけたのである[4]【図B】リヨンサン=テティエンヌ間の蒸気鉄道(1830年代) 上2つは鉄道馬車、下が蒸気機関車。蒸気鉄道の時代になっても、客車は、1両のうえに個室が3室設けられ、屋根には荷物台があり、2等客車では屋根に人も乗っている。

モンテリウスは、産業革命を経て技術革新の著しい19世紀後半のヨーロッパにあっても、上述の諸条件からの制約が確認できるとして、鉄道客車の形態の例をあげている[3][注釈 3]1825年に開業した、蒸気機関による世界最初の公共鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で用いられた客車は、屋根には荷物台が、車両の前後には御者従者の乗る台があり、中央側面にドアがついて、は車体の輪郭とパラレルな曲線をもつなど、鉄道客車に先行する駅馬車のスタイルにきわめてよく似た形態をもっていた(【図A】参照)。蒸気機関車は従来の輸送機関に比較してはるかに高速で大量の移動が可能なため、きわめて早い段階において、1つの台車のうえに複数の個室をのせた客車が登場するが、それでも、その初期においては、客車胴部がふくらむ傾向がみられ、屋根の上に貨物台が残るなど前代の馬車鉄道の諸要素を引きついでいる。つまり、鉄道車両といった近代産業の産物でさえ、意外にも過去の規制が強くはたらいていることが認められるのである(【図B】参照)[3]。モンテリウスは、いわば進化論における生物の痕跡器官に相当するものが、技術史においても確認できるとして、技術が未開発で選択の範囲の少なかった時代にあってはいっそう前代からの影響が強くのこったであろうと考え、年代変化の系統的把握の可能性を唱えたのだった[3][注釈 4]青銅器時代の北欧の留め針(フィブラ) モンテリウスの編年によればIII期に属する留め針である。

モンテリウスは、系統的な変化の法則を、考古資料の入念な観察を通じて具体的なかたちで示し、遺物を年代順あるいは発展順に並べる方法を完成した[3]。すなわち、北ヨーロッパの青銅器文化における留め針の事例をはじめとして、ヨーロッパからオリエントにおける各種の遺物について、その形態・装飾・製作技術などを比較検討し、その変化をたどることによって、多くの遺物の系譜を明らかにしていった。

たとえば留め針は、本来はまったく用途の異なる針金具と弓形金具とを組み合わせたものとして青銅器時代に出現した。それが新しく留め針としての役割をあたえられると、その用途に即したかたちで形態変化が生じていくと考えられる。つまり、その用途・役割にとって直接必要でない要素(痕跡)は徐々に消失していき、継続して使用されるうち、ただ単に「留める」という用途から「見せる」という用途の発生により装飾化が進むなどの形態変化が生じたと考えられるのである。モンテリウスは、こうして北欧の留め針編年を4期に分けた[3]。また、このようにして明らかにしていった遺物の系譜を、「型式の組列(セーリエ)」と称した[3]。ただし、モンテリウスにとって、この型式の組列の編成は、あくまでも仮説の提示作業だったのであり、彼は同時に、それを別の方法で検証する必要があるとも述べている[3]

モンテリウスはまた、遺物の形態変化ばかりではなく、各段階において決まった遺物の組み合わせがあるとし、これを「一括遺物」(「まったく同時に埋められたとみなすべき状況で発見されたひとまとまりの遺物」)と称した[3][注釈 5]


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