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出典検索?: "坪井智哉"
坪井 智哉石狩レッドフェニックス 監督 #77
横浜DeNAベイスターズコーチ時代 (2018年10月24日)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都江東区
生年月日 (1974-02-19) 1974年2月19日(50歳)
身長
体重177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1997年 ドラフト4位
初出場NPB / 1998年4月3日
最終出場NPB / 2011年6月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
PL学園高等学校
青山学院大学
東芝
阪神タイガース (1998 - 2002)
日本ハムファイターズ
北海道日本ハムファイターズ (2003 - 2010)
オリックス・バファローズ (2011)
サンラファエル・パシフィックス (2012)
ゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ (2012)
リオグランデバレー・ホワイトウィングス (2012)
エディンバーグ・ロードランナーズ (2013)
ランカスター・バーンストーマーズ (2014)
監督・コーチ歴
横浜DeNAベイスターズ (2015 - 2021)
石狩レッドフェニックス (2022 - )
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坪井 智哉(つぼい ともちか、1974年2月19日 - )は、東京都江東区出身[1]の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、コーチ、監督、野球解説者。 幼少期は愛知県名古屋市、大阪府三島郡島本町で過ごした。父は元プロ野球選手で内野手の坪井新三郎(中日、太平洋-クラウン)[2][3][4]。 プロ野球選手の息子という環境もあり、幼少時代はボールやグラブ、カラーバットが遊び道具だったため自然に野球を始めていた。父親が右投右打で、親戚にも左利きがいなかったため、当初は「自分も右利きだろう」と勘違いしていた。ところが、右で取り組んだ野球のセンスは皆無であり、あるとき父親から「オマエの一番投げやすい方法で投げてみろ」と指摘される。その際とっさに投げたのが左だったことから、自身が左利きであること初めて知ることとなった[5]。 坪井は小学生時にKKコンビに憧れ、自身もPL学園へ進学。PL学園では1年生の秋から外野手としてベンチ入りする。その後投手として活躍するも、自身の在学中に甲子園出場はなかった。坪井の1学年上には入来祐作、1学年下には今岡誠、2学年下には松井稼頭央が在籍。 高校卒業後は青山学院大学に進学(2学年上に小久保裕紀、同級生に川越英隆、1学年下に井口資仁、澤崎俊和、2学年下に高須洋介などが所属)。1993年に小久保裕紀らを擁して春季1部リーグを制し、全日本大学野球選手権大会に優勝、大学野球日本一を果たした。東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点を記録。大学時代に切り替えた振り子打法に手応えを感じ、1995年秋季リーグにてチームメイトの高須洋介に次ぐ打率.409(リーグ2位)を記録し、ベストナインに選出された。この秋は明治神宮大会で準優勝。 同年のドラフトでは指名されず[注 1]、大学卒業後は社会人野球の強豪である東芝へ就職(東芝での背番号は24)。おもに1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会にて打率.476を記録し、新人賞を獲得。都市対抗野球では2年連続ベスト8。第23回社会人野球日本選手権大会は、チームが準決勝で敗退するも坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞ならびに大会優秀選手賞(外野手部門)に選出された。1996年暮れには社会人ベストナインも獲得。翌1997年の第24回社会人野球日本選手権大会では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選出される。同年、1997年アジア野球選手権大会で日本代表に選ばれた(上原浩治・建山義紀・福留孝介・二岡智宏らも選出)。 1997年度プロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから4位指名を受ける。契約金8000万円、年俸1200万円で契約合意した。 1998年(1年目)、吉田義男監督の下、1月28日の一・二軍振り分けでは新人選手唯一となる一軍参加となった[注 2]。キャンプ・オープン戦で結果を残し開幕一軍を勝ち取った。 開幕の外野陣は、パウエル(レフト)・新庄剛志(センター)・桧山進次郎(ライト)であり、4月前半は代打、守備固めの起用に留まった。その後、パウエルと平塚克洋の故障により[7]、4月19日には1番ライトでプロ初スタメンを果たす。
経歴
プロ入り前
阪神時代