坊門清忠
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 凡例坊門清忠
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代初期
生誕弘安6年(1283年)?
死没延元3年/暦応元年3月21日1338年4月11日
別名通称:坊門宰相
官位従二位参議
主君後醍醐天皇
氏族坊門家藤原北家道隆流
父母父:坊門俊輔
兄弟輔能、俊親、清忠
子重隆、親忠、女子?
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坊門 清忠(ぼうもん きよただ)は、鎌倉時代から南北朝時代初期にかけての公卿従三位坊門基輔の孫、左中将坊門俊輔の子。後醍醐天皇の古参の側近として建武政権下で活躍し、南北朝分立後は南朝に仕えた。建武政権・南朝を文書行政面から支え、重臣吉田定房との相次ぐ死は後醍醐帝に深く悼まれた。歌人でもあり、勅撰集続千載和歌集』、準勅撰集『新葉和歌集』等に入集。
生涯

前半生の官歴は明らかでない。しかし、『増鏡』に嘉元3年(1305年)9月の亀山法皇崩御に際して尊治親王(後の後醍醐天皇)らとともに哀傷歌を詠進したという描写があり[1]、また、文保2年(1318年)に編纂された『続千載和歌集』羇旅歌には、大覚寺統(後醍醐天皇が連なる血統)を補佐する重鎮吉田定房の邸宅で詠んだ歌が輯録されている[2]。よって、後醍醐天皇の即位以前から近臣として仕えていたと考えられる。

後醍醐親政下の正中3年(1326年)2月29日、右大弁に達し、翌嘉暦2年(1327年)7月16日従三位に叙されて公卿に列した(『公卿補任』)。次いで同3年(1328年参議に任じられて左京大夫を兼ねる(『公卿補任』[3])。元徳3年(1331年)1月には参議を辞しているが(『公卿補任』)、元弘の乱で後醍醐に供奉して笠置へ赴いた形跡はない。

元弘3年/正慶2年(1333年)6月12日、光厳天皇の廃位によって還任(『公卿補任』[3])。

元弘3年7月17日、勅令により造興福寺長官に内定し(『大乗院記録』[4])、同年9月23日に正式に補任(『公卿補任』[3])。

建武政権下の建武元年(1334年)には信濃権守・大蔵卿を兼ね、従二位に昇叙した他(『公卿補任』[3])、雑訴決断所の二番衆(東海道担当)を務めている(『建武記[5])。

延元の乱での尊氏の京都奪回に伴い、延元元年/建武3年12月21日ユリウス暦1337年1月23日)、後醍醐は吉野に潜幸して南朝(吉野朝廷)を樹立。

延元2年/建武4年(1337年)3月29日に北朝での官職を辞職している(『公卿補任』[3])ところを見ると、清忠はこの頃に後醍醐天皇を追って吉野入りし、南朝政権の一角を占めたようである。

同年9月13日夜、吉野行宮内裏で開かれた賞月の歌会に出席し、和歌2首を詠んでいる(『新葉和歌集』[6])。なお、『新葉和歌集』原文はこれを翌年の延元3年のこととしており、『公卿補任』でそれまでに死亡していることと矛盾するが、『大日本史料』は『新葉和歌集』の方が年を一年書き間違えたのだろうと判断している[6]

延元3年/暦応元年3月21日1338年4月11日薨去(『公卿補任』[3])。榊原忠次『新葉集作者部類』によれば、享年56とされるが、定かではない[注釈 1]

これを遡ること2ヶ月前の同年1月23日には、「後の三房」の一人である前内大臣吉田定房も薨去しており、相次ぐ古参の腹心の死に、豪快さで知られる帝でさえ打ちひしがれ、清忠と定房の死を悼んだ次の御製を詠んだ。「ことゝはむ 人さへまれに 成にけり 我世のすゑの 程ぞしらるゝ」(『新葉和歌集』哀傷・1370)[7](大意:親しく言葉を交わせる人も少なくなってしまった。我が人生も終わりに近づいてきたことが知れるものだ)。翌年、自身の予見通り後醍醐天皇もまた崩御した。
人物

歌人でもあり、和歌勅撰集続千載和歌集』に1首、準勅撰集『新葉和歌集』に2首が入集した他、『拾遺現藻和歌集』・『臨永和歌集』・『松花和歌集』などの私撰集にも入集がある。

前中納言定房家にて、行路秋望といへる心をよみ侍ける「ぬれつつも 猶そ分行 旅ころも 朝たつ山の まきの下露」藤原清忠朝臣(『続千載和歌集』羇旅歌・832)[2]

延元三年九月十三夜内裡三十首歌中に月前紅葉「照まさる 月のかつらに ならふらし しぐれぬさきの 秋の紅葉葉」(『新葉和歌集』秋下・391)[8](大意:美しく輝く月の中にあるという伝説の桂の木に応じたのでしょうか、時雨の時期もまだ来ていないというのに、秋の紅葉の葉が美しく色づいています) 参考:壬生忠岑「ひさかたの 月の桂も 秋はなほ 紅葉すればや 照りまさるらむ」(『古今和歌集』秋上・194) なお、原文の「延元三年」は二年の誤り[6]

延元三年九月十三夜内裏三十首歌中に月前逢恋「まれにあふ 夜半の月影 心せよ かたぶけばこそ 鳥も鳴なれ」(『新葉和歌集』恋3・851)[9](大意:久しぶりの夜の逢引ですが、月の光に注意してください。月が傾いて明け方になったら、鶏が鳴いて情事がばれてしまうでしょうから)
伝説・創作
新田義貞に助け舟

軍記物太平記』流布本巻14「新田足利確執奏状事」では、建武2年(1335年)、鎌倉の足利尊氏と京の新田義貞との抗争が表面化し、互いに相手方討伐の綸旨を要求すると、清忠は結論を控えつつも義貞の言い分に理があると主張した。
湊川の戦い

『太平記』流布本巻16「正成兵庫に下向の事」[10]では、建武の乱中、延元元年/建武3年(1336年)5月、九州より東上した尊氏を迎え討つ際に、天皇の比叡山臨幸を献策した楠木正成に対し、清忠は「義貞が一戦も交えぬまま、帝が年に二度まで京を捨てるとは、帝位を軽んじ官軍の面目を失わせるもの」と大義名分論を振りかざして反対し、義貞とともに迎え撃つべきだと主張した。その結果、正成は湊川の戦いで戦死し、後醍醐は比叡山遷幸を余儀なくされた。

上記は有名な逸話ではあるが、『太平記』は軍記物であって、他の史料による裏付けがない場合には、史料的価値は極めて低い点に注意する必要がある。しかも、『太平記』古態本(より原本に近いとされる写本)の一つである西源院本では、この逸話に坊門清忠の名は一切登場しない[11]


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