坊屋三郎
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ぼうや さぶろう
坊屋 三郎
本名石川博
柴田俊英
生年月日 (1910-03-28)
1910年3月28日
没年月日 (2002-05-25) 2002年5月25日(92歳没)
出生地 日本北海道夕張市
職業芸人俳優
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1937年 - 2002年
著名な家族芝利英(弟)
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坊屋 三郎(ぼうや さぶろう、本名:柴田俊英、1910年3月28日 - 2002年5月25日)は、日本芸人俳優北海道夕張市出身。
来歴・人物

出生時の氏名は石川博、生後数ヶ月で実相寺へ養子に出され、柴田俊英と改名。私立北海中学校に入学し、弓道部に所属した。日本大学専門部宗教科に進学するも、専門部芸術学科(現在の日本大学藝術学部の前身)に転科して声楽を学ぶ。

吉本興業東京吉本)に入り、1937年に弟の芝利英川田義雄(第二期は山茶花究)・益田喜頓(北海中学の同級生)とボーイズ演芸あきれたぼういずを結成。1939年新興キネマ演芸部に高額報酬を条件に引き抜かれ、吉本子飼いの芸人であった川田を除く3人で移籍した[1]。同年東宝の「ロッパの大久保彦左衛門」で銀幕デビュー。あきれたぼういずの一員として戦前は一世を風靡する人気を得た。詳細は「あきれたぼういず」を参照あきれたぼういず時代(1950年・下)

戦後にグループを再結成するが1951年に解散し、以降は舞台・映画で活躍。日本映画黄金時代とされる1950年代にプログラムピクチャーとして多作された喜劇映画を中心に多数出演した。

1974年には松下電器(現在:パナソニック)「クイントリックス」のテレビCMでの外国人との掛け合いセリフ「クィントリックス!!英語でやってごらんよ。あんた外人だろ、発音悪いね」が流行語になった。これがきっかけとなって、松下電器から家電製品一式がプレゼントされた。1980年代以降は、大林宣彦映画の常連としても知られた。後にボーイズ・バラエティ協会会長を務めた。晩年は長寿を逆手に取って「まだ生きてます。」という挨拶をツカミにしていた。

2002年5月24日に自宅近くのバス停で倒れ、救急車東京世田谷区の病院に運ばれたが、5月25日に心不全のため死去。享年92。戒名は大演俊彦居士(だいえんしゅんげんこじ)[2]
後任

坊屋の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。

千田光男 (『お熱いのがお好き』:オズグッド・フィールディング3世 役 ※WOWOW版追加部分のみ)

主な出演作品
映画

淀川長治物語神戸篇 サイナラ(2000年)

麗猫伝説 劇場版(1998年)

あした」(1995年)

女ざかり(1994年)

彼女が結婚しない理由(1992年)

日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群(1988年)

野ゆき山ゆき海べゆき(1986年)

アニメちゃん(1984年)

サチコの幸(1976年)

続・愛と誠(1975年)

まむしと青大将(1975年)

襟裳岬(1975年)

お姐ちゃんお手やわらかに(1975年)

ずべ公番長 夢は夜ひらく(1970年)

でっかいでっかい野郎(1969年)

大日本ハッタリ伝(1965年)

コレラの城(1964年)

銀座の次郎長 天下の一大事(1963年)

裸体(1962年)

ポンコツおやじ(1962年)

私は嘘は申しません(1961年)

底抜け三平 危険大歓迎(1961年)

カミナリお転婆娘(1961年)

銀座ジャングル娘(1961年)

白い雲と少女(1961年)

天に代わりて不義を討つ(1961年)

人間の条件 完結篇(1961年)

凸凹珍道中(1960年)

若社長と爆発娘(1960年)

金語楼の海軍大将(1959年)

おヤエの女中と幽霊(1959年)

おヤエのもぐり医者(1959年)

大笑い江戸っ子祭(1959年)

金語楼の三等兵(1959年)

おヤエの女中と幽霊(1959年)

阿波狸変化騒動(1958年)

アンコール・ワット物語 美しき哀愁(1958年)

忠臣蔵(1958年)

新日本珍道中(西日本の巻)(1958年)

坊ぼん罷り通る(1958年)

新日本珍道中(東日本の巻)(1958年)

日米花嫁花婿入替取替合戦(1957年)


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