均田制(きんでんせい)は、中国に於いて南北朝時代の北魏から唐代まで行われた土地制度。国家が国民に田や荒地を給付し、得た収穫の一部を国家に納め、定年により土地を返却する。 制度の具体的内容やその実態に付いては諸議論があるが、概要および歴史の項目では一般的に理解されていると思われる均田制を説明する。 均田制という制度は、戸籍に登録された民のうちの、労働に耐えうる人間に、一代限りの口分田(露田、麻田)と、加えて一定の広さまで世襲が認められる永業田
概要
北魏孝文帝治世の485年に初めて施行され、その後の東魏と北斉、西魏と北周、隋、唐に受け継がれる。しかし人口増大による未授給の欠田戸の増加や武周期の浮戸や逃戸の増加に伴う田籍の遺漏進行、玄宗期の荘園増大などにより次第に実施は困難となる。安史の乱以降は藩鎮が経営する営田の増加もあって有名無実となり、780年の両税法の施行によって実質上は廃止された。
均田制は土地と民の把握および恒常的な税収という国家支配に於いて重要な制度であり、府兵制と並んで律令制の根幹たる存在であった。周辺諸国は唐律令を採り入れると共に均田制もまた取り入れ、日本に於いては班田収授法として実施された。 単位に付いては単位表を参照。 周代には井田制が行われていたとされる。井田制は9家を一組と成し、一家ごとに100畝の私田を給付、9家に100畝の公田を共同で耕作させる。私田から得られる収穫は民の収入に、公田から得られる収穫を国に対する税とする制度である。 前漢では豪族による大土地所有が進み、これを嫌った政府は哀帝の即位(綏和2年、紀元前7年)と共に土地の所有の上限額を決める限田制
歴史
均田への系譜
後漢を引き継いだ魏の実質的な創始者曹操は戦乱で荒れ果てた土地に農民を集め、自らの軍をもって守備させ、収穫を納めさせる屯田制を実行した。
魏から禅譲を受けた西晋では280年より占田・課田制が施行される。占田・課田制は土地制限としての占田、農民に対する給付と課税としての課田という両者を備えており、均田制の前身と言えるものであった。ただし西晋が短命に終わったためにこの制度は実施期間がごく短く、また史料的な制約もあり、成果がどの程度上がったのか良く解らない。
西晋滅亡後、華北は五胡十六国時代の長い混乱期に入る。その中で徙民政策
と計口受田制が行われる。徙民とは民を徙(うつ)すの意で強制的な移住政策のことであり、移住させた民に対して口(人数)を計って田の給付を行うのが計口受田制である。439年、北魏が華北を統一する。当時は豪族が経営する広大な荘園が存在しており、その中に多数の農民が囲い込まれていた。均田制はこれと並立したが、当初の均田制は兵役と密接に結びいた軍事制度の側面が主で田制の側面は従である。
馮太后の摂政の元に均田制に前後して484年(太和八年)6月に俸禄制が発布。翌485年(太和九年)10月、李安世
の上奏を受けて均田制が発布、更に翌486年(太和十年)2月には三長制が施行されている[注釈 1]。それまでの北魏官僚には俸禄が無く、官僚は勝手に民衆から取り立てて自らの収入としていた。俸禄を与えそれを禁じたのが俸禄制である。三長制は五家を一隣、五隣を一里、五里を一党と言う単位に民衆を組織する制度である。俸禄制は地方の綱紀粛正により、均田制の円滑な実施を求めるものであり、三長制は豪族が囲い込む農民の再編と隠匿する戸口を摘発して国家の支配下に置き、均田制の礎とするものである。
北魏に於ける均田制の具体的な内容を述べると
15歳以上の男性を男夫とし、これに露田80畝(正田40畝・倍田40畝、約3.7ヘクタール)と桑田20畝(約0.93ヘクタール)ないし麻田10畝(約0.46ヘクタール)を与える。
既婚女性を夫人[注釈 2]とし、これに正田20畝、倍田20畝、麻田5畝を与える。
奴婢は良民(奴婢でない)に準ずる。
耕牛に正田30畝・倍田30畝を与える。但し4年まで[注釈 3]。
園宅地として良人3人に1畝、奴婢5人に1畝が与えられる。
露田とは木が植えられない裸の田という意味で穀物を栽培する。桑が栽培できる土地には桑田を桑が出来ない土地は麻田がそれぞれ給付される。倍田とは連作防止のためのものである。
この内、桑田と園宅地は世襲が認められ、ある程度自由に処分することが認められた。一方で世襲により桑田を多く持つ者は余剰分を倍田の替わりとして充てられる。露田と麻田は男夫は死ぬか、70になった時に返還する。夫人の場合は明確ではないが、夫が死んだり、離縁したりして夫人でなくなった場合には返還する。それぞれ後代の口分田と永業田の元となったと考えられる。
奴婢や牛に対する給付はその所有者が受け取ることになる。これは大土地所有をある程度認めたものと考えられるが、これは初期均田制が土地の均等な配分よりも労働力を余すことなく活用することに主眼が置かれていたためと考えられる。
そしてこの支給に対する収税が均賦制であり、夫婦に対して租が粟2石(79.2リットル)、調帛1匹(27.9メートル)、麻布の場合には布1匹が課せられる。未婚の男性はこの四分の一、奴婢には八分の一、牛に対しては二十分の一がかけられる。 587年、隋が中国を統一すると文帝は全国に対して均田制を実施(ただし、旧南朝領域に関する問題は後述)し、煬帝の即位と共に夫人、奴婢[注釈 4]に対する給付を取りやめる。 北周から禅譲を受けた隋であったが、均田制に付いては斉制に倣った。 隋の均田制では男丁(男夫に同じ)に対して口分田80畝(約4.17ヘクタール)、世業田20畝(約1.04ヘクタール)が給付される。口分田は59歳になると返還する田であり、世業田
隋唐均田制
またこれとは別に官人永業田と、職分田、公廨田の制度が整備される。官人永業田は官僚、勲官(外征に勲功を挙げた者)、爵位の持ち主に対して与えられ、世襲が認められ、官品の上下で給付額が決まる。職分田は実際の職に就いている者がその間だけに与えられるものである。公廨田は官庁の経費をまかなうためのものである。職分田と公廨田は希望者に対して耕作の権利を与え、収穫の一定量を収めさせるというものだが、実際には半強制であったようである。
これに対して租が粟3石(59リットル)、調が絹1匹(29.5メートル)と綿3両(約124グラム)、役に年30日が課される。583年(開皇三年)には租が2石・役が20日とそれぞれ削減される。
唐も基本的に隋制に倣う。庸の制度は隋に於いて見られ始め、唐になって完全な形となる。 武周から玄宗時期にかけて、天災、労役の過重、大土地所有が進んだことによる耕作地の不足などにより窮迫した農民が土地を失い、本籍地から逃亡する例が増える。これを逃戸
均田制の崩壊
また客戸は大土地所有者の元に逃げ込んで小作人となることが多く、これを佃戸と呼ぶ。佃戸の増大により、租庸調の収入は激減した。
これに対して唐中期から租庸調とは別立ての税、地税、青苗銭、戸税などが出てくるようになる。これらは租庸調が土地と民とを一体のものと看做してかけられた税であるのに対して、民個人の財産に応じてかけられる税である。安史の乱以後には財政の悪化も影響し、これらの税目が非常に多岐に渡るようになり、その内容も非常に複雑で不公平になりやすいものであった。また乱以降に割拠した藩鎮勢力はこれらを恣意的に取り立てて自らの財源として扱い、不公平はますます酷くなった。この不公平が更に逃戸を生み出し、それがなお財政の悪化をもたらすという悪循環であった。
780年に宰相楊炎の建議によって、複雑な税制を夏税と秋税の二つに纏める両税法が施行され、均田制を規定する田令はそのまま保持されるものの実質的には消滅した。 給付額、課税額の変遷に付いては後述の表を参照のこと。
制度の変遷
給付