坂田靖子
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坂田 靖子(さかた やすこ、1953年2月25日[1] - )は、日本漫画家[2]。女性[2]

ポスト24年組の一人に数えられる[3]。短編が多く、コメディからシリアスまで多岐にわたる。ユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ナンセンス性、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図など評価が高い[4]。同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた[2]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}現在も石川県金沢市在住。[要出典]
来歴

大阪府高槻市出身[5]。幼児の頃から本が好きで、保育園に入る前にマンガを読み始めていたという[6]。小学校に入る2年ほど前に、水野英子の少女漫画『星のたてごと』を読み感動[6]。中学3年生の時に初めてマンガ友達ができ、漫画を描いて見せあうようになる。石ノ森章太郎の本で手書きの原稿を綴じて回し読みする「肉筆回覧誌」を知り、雑誌の読書コーナーでメンバーを募り20人ほどで活動を始め[6]、中学3年生の時に漫画研究会ラヴリを創設[1][5][7][8]。高校生の時16歳で初の肉筆回覧誌を発行[8]。漫画の描き手を探し回り、17歳で花郁悠紀子と出会い大親友となる[4][8]

萩尾望都の熱烈なファンで、1971年(当時高校生18歳)の冬に、萩尾ら24年組の少女漫画家が集まって住んでいた通称・大泉サロン(大泉学園)を花郁悠紀子と共に訪問、その後夏に花郁と共に長期で滞在し食事や原稿の手伝いをする[4]。漫画研究会ラヴリには、花郁悠紀子、橋本多佳子 (漫画家)、小沢真理岡野史佳といったのちのプロ作家が参加し、地方都市金沢で活動しながら70年代後半には同人界で全国的に知られるレジェンド的存在となった[9][5]1975年、『花とゆめ』掲載の「再婚狂騒曲」でデビュー[1][10]。デビュー時の編集長・小長井信昌は漫画界のベテランであったが、坂田のマンガはよくわからないが、読者は面白いと言っているので好きなように描くようにと言い、一般受けする学園ラブコメなどを描くよう強制することも全くなかった[6]。坂田は深く尊敬する編集長のもとで自由に創作し、小長井が1976年に創刊した新雑誌『LaLa』に創刊メンバーとして参加[6][5]。1979年から、ラヴリの同人誌が肉筆回覧誌からオフセット印刷になり[7]、同人誌「ラヴリ」は1990年代初頭までに50冊弱刊行された[11][12]。(ラヴリから「やおい」という言葉が生まれた。参考:やおい#やおいという言葉の誕生白泉社との専属契約がおわると、1980年代から小学館プチフラワー』、マガジン・マガジンJUNE』、新書館グレープフルーツ』、ペヨトル工房『銀星倶楽部』、朝日ソノラマDUO』、早川書房SFマガジン』、潮出版社コミックトム』、白泉社MOE』など幅広い雑誌で活動[8]

2016年時点で金沢在住[5]。2016年3月に銀座で初の個展を行う[3]
作風

デビュー前は今と異なり、少し悲しい話の方が多かった[4]。『バジル氏の優雅な生活』の頃から、ユーモアのある、ウィットに富んだ作品が増える[4]。坂田はこの変遷について、「最初の頃はよくわからなかったせいもありまして、しっとりした話だとか悲しい話とかにも惹かれたんですけど、だんだん年を取ってきますと、人生はけっこう楽しいなって(笑)。開き直ってきまして。」と語っている[6]

坂田曰く、依頼を貰う時に内容についての指定はほとんどなく、事前の打ち合わせも滅多になく、それぞれの雑誌の読者の好みに合わせて自由に描いているという[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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