坂田健史
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坂田 健史2007年3月19日、後楽園ホールで世界王座を獲得
基本情報
本名坂田 健史
通称Burning Fist
階級フライ級
身長163cm
リーチ170cm
国籍 日本
誕生日 (1980-01-29) 1980年1月29日(44歳)
出身地広島県安芸郡府中町
スタイル右ボクサーファイター
プロボクシング戦績
総試合数44
勝ち36
KO勝ち17
敗け6
引き分け2
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坂田 健史
前職プロボクサー
所属政党無所属
稲城市議会議員
当選回数4回
在任期間2011年 - 現職
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坂田 健史(さかた たけふみ、1980年1月29日 - )は、日本の元プロボクサー政治家広島県安芸郡府中町出身。東京都稲城市議会議員(4期)。元WBA世界フライ級王者。協栄ボクシングジム所属。山陽高等学校卒業。愛称は "Burning Fist"。入場曲はEUROPEの "The Final Countdown"。
人物

元世界王者の竹原慎二と同じ府中町出身。総合格闘家中村和裕は坂田の卒業した府中緑ヶ丘中学校を1年先に卒業している。

2006年7月に結婚。2007年7月にハワイホノルルで挙式を行い、2009年10月には長女が誕生した。

2007年7月1日の初防衛・王座統一戦以降、「あこがれのグローブだった。世界タイトルマッチでしかできないこと」[1]との希望により、エバーラスト製8オンスのボクシンググローブが使われている。

特に激戦の続いた2007年には胸囲が1年間で5cm、それまでの3年間で7cm大きくなった。デビュー以来、直接の筋力トレーニングらしいことはほとんどせず、2007年の1年間はサンドバッグを打つことをやめ、ミット打ちとスパーリングで動き回ってパンチを打つ練習に徹していた[2]。また2008年には脈拍数がマラソン選手並みとなる40bpm台に減少した[3]

デビュー10周年に当たる2008年、陣営は坂田のボクサーとしての有り様を「王道」という言葉で表現した。この「王道」については、今できることを常に全力ですること[4]、自分の納得できるかたちで最高の強さを証明していくこと[5]、など詳細な解釈は分かれる。
来歴

高校入学と同時に入部したボクシング部は3か月で退部した[6]。高校2年生の秋に竹原慎二の実父が経営する広島竹原ボクシングジムに入門し、ボクシングを再開した[7][8]。この年の夏休みに上京、関東近郊の20ものボクシングジムを見学した上で協栄ジム入門を決意した。協栄ジム前会長・金平正紀の最後の弟子と言われ[9]、協栄ジムのマネージャー大竹重幸から指導を受けた[10]

1998年12月5日、3RTKO勝利でプロデビューを果たした。1999年1月18日のプロデビュー2戦目は協栄ジム前会長・金平正紀がセコンドについた最後の試合となり、会長の金平桂一郎にとっては、父親と2人でセコンドについた唯一の試合となった[9]。坂田の勝利を見届けると前会長は入院したが、その時点で余命は2週間と医師から告げられていた。坂田は試合後に見舞っている[11]。前会長は約2か月後の3月26日に大腸癌のため65歳で死去した[9]

1999年11月6日、東日本フライ級新人王を獲得。同年12月18日、有永政幸との全日本新人王決定戦では序盤はリードされたが4Rから挽回し、三者ともに58-57の判定勝利を収め、全日本フライ級新人王を獲得した[12]
日本王座獲得

2001年4月9日、セレス小林の世界挑戦決定にともない空位となった日本フライ級王座を同3位として、同2位川端賢樹と争い、3-0で判定勝利を収めて無敗のまま日本王者となった[13]。同年7月16日、1位内藤大助を迎えて無敗同士の日本王座初防衛戦。序盤は主導権を握られ、5Rから反撃。9R中盤にバッティングによるカットで流血し、終盤は主導権を奪い合った結果、0-1(96-96、96-96、95-97)での引分防衛となった[14]。この判定に関して起こった騒動についての詳細は大串事件を参照。この後、2位の八尋史朗、4位の仲田瑞男を相手に3度の防衛に成功した。

2002年4月30日、WBA14位・WBC9位の日本王者としてWBA9位・WBC7位のトラッシュ中沼を迎えて4度目の防衛戦。トレーナーの大竹重幸は足を使うように指示していたが、中沼の堅いガードにパンチをブロックされて指示を守れず、初回から足を止めての打撃戦となった[5]。7R、9Rにはクリーンヒットを受け、最後まで頭をつけあう接近戦で激しく打ち合ったが、96-97、96-98、96-96の0-2で判定負けとなり、王座を失うとともに初黒星を喫した[15]

2003年4月5日、WBC14位としてWBA2位・WBC4位の日本王者トラッシュ中沼への雪辱戦。体格の差を生かすために足を使ったボクシングを心がけた。中間距離を保って中沼の堅いガードの上から打ち続け、9Rに中沼の左フックがクリーンヒットとなった後も丁寧に反撃した。10Rは接近しての打ち合いとなり、97-95、97-96、96-95の3-0判定勝利で王座を奪回した[16][17]。この王座はWBA13位の岡田一夫、3位の伊藤克憲を相手に2度防衛し、2003年12月に返上した。

2004年6月4日、有明コロシアムでWBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラに同2位として挑戦した。パーラは、前日計量には2度失敗して、3度目にクリアした[18][19][20]。試合は佐藤修との「WBAダブル世界タイトルマッチ」として開催された。序盤からプレッシャーをかけ、ボディブローでダメージを蓄積させた。2Rには右アッパーを受けて顎の骨を2か所折ったが、4Rには手数の減ったパーラをロープ際に後退させた。パーラは6Rに左フックをカウンターで受けるとロープに掴まるなどして防戦一方になり[21]、これ以降は下がりながらカウンターを合わせ、クリンチを繰り返して試合を運び、10R終了のゴングの後には左フックで加撃する場面もあった[22]。111-117、113-115、114-114の0-2という判定結果がコールされると場内にはブーイングが起こった[21]。来場した元WBA・WBC世界ミニマム級王者の大橋秀行も「あれで勝てないなら、どうやればいいのか」と話した[23]。6月9日、下顎骨骨折のため4時間半の手術を受け[22]、10か月のブランクを余儀なくされた。

2005年9月19日、WBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラに同3位として再挑戦。この前日計量はパーラも1度でクリアした[24]。序盤は有効打でリードされたが、低く距離を詰めて反撃し、4R終盤にはパーラの足を鈍らせた。パーラは離れ際のパンチ、執拗なクリンチ、ホールディングで攻撃をかわした。終盤は下がるパーラを何度もぐらつかせ、11Rにパーラはローブローで減点1を受けた[25]。パーラのグローブのテーピングが解ける場面もあり、攻撃は寸断されがちだった。手数と積極性では初挑戦以上のアピールがあったが、113-115、113-114、114-114の0-2で判定負けとなった。

2006年9月18日、WBA3位・WBC8位の時点で迎えた孫京辰(韓国スーパーフライ級1位)との復帰5戦目は52.0kg契約で行われた。5Rに左ボディアッパーで孫をロープ際に後退させ、追撃を仕掛けたところでタオル投入となった[26]

2006年9月28日、東京で開催されたWBA総会では世界タイトルマッチ会議が行われ、フライ級王者ロレンソ・パーラが故障した右膝靭帯の治療中であることを受け、暫定王座を設けることが確認された[27]。同年12月2日、フランスパリベルシー総合体育館で行われたWBA世界フライ級暫定王座決定戦を同3位として1位で元WBA世界ライトフライ級王者のロベルト・バスケスと争った。序盤はバスケスに攻勢をとられたが、3Rからペースアップした。5R序盤にバランスを崩したところでバスケスの左ストレートがカウンターで掠り、ダウンとされてカウント8をとられたが、6R以降は徹底的に接近してボディを攻撃した。9Rにはバスケスが距離をとって攻め、カットでドクターチェックを受けたものの、12R終盤までバスケスをロープ際に詰めては連打を放った。判定は113-114、113-115、114-113の1-2でバスケスの強打を支持したが、結果的にダウンでの失点がなければ勝利もしくは引き分けだったため、レフェリングを不運とする声が高かった[28]。バスケス側も「(バスケスが)負けたと思った」と言うほど王座に接近し、正規王者パーラも後に「あの試合では坂田が勝っていたと思う」と話した[29]
世界王座獲得

2007年3月15日、予備検診の結果では両者ともに減量の影響も特になく好調だった[30]。3月17日、調印式に続き、WBAスーパーバイザー、JBC、パーラ・坂田両陣営の4者立ち会いの下で、ルールミーティングが行われた。会長の金平は、前日計量で体重を超過した場合、選手は適正体重に落とす最善の努力をし、試合の公平性を期すために当日にも体重を計測するよう要請したが、パーラ陣営の賛同が得られず、計量結果次第で改めて協議することとなった[31][32]。3月18日15時から行われた前日計量でパーラは53.5kgと上限を2.7kg上回り、2時間後の再計量でも52.9kgと2.1kg上回ったため、体重超過によって王座剥奪となった[33]。またこれによりパーラはファイトマネーを35%カットされた。前日に続いての4者協議の結果、試合開始4時間前の17時に非公式の当日計量を行い、バンタム級のリミットにあたる53.5kgを下回っていることを確認した上で両選手の試合出場とタイトルマッチの開催を認めるという極めて異例の措置がとられた[34]。予備検診の結果同様、計量直前に行われたパーラの検診結果にも減量に苦しんだ形跡は特になかった[35]

2007年3月19日、前王者ロレンソ・パーラとの3度目の対戦は同3位として通算4度目の世界挑戦となった。前日に急遽取り決められた通り、この日17時に両選手が計量を受け、パーラが53.3kg、坂田が53.2kgとの結果をもって、ようやく変則タイトルマッチとしての決行をみた[36]。距離を置こうとするパーラに初回から接近し、脇腹にボディブローを集中させた。パーラはロープ際に後退し、クリンチで回避した。2Rにはパーラのガードを崩し、低い姿勢から執拗にボディを当てた。3R開始のゴングとともに坂田はダッシュしたが、パーラはコーナーの椅子から立ち上がれずに首の痛みを訴えて棄権した。3R0分14秒、TKOで坂田が勝利[37]、協栄ジム11人目の世界王者となった[38]。1週間後の3月26日、坂田は東京・青山の梅窓院を訪れ、金平正紀の墓前に勝利を報告した。この日は、同郷の恩師である前会長の9回忌だった[39]

2007年7月1日、有明コロシアムで正規王者として暫定王者ロベルト・バスケスを迎え、WBA世界フライ級団体内王座統一をかけた初防衛戦を行った。初回は動きが硬く、顎が跳ね上がる場面もあったが、打ち合いに応じるバスケスに対し、2R中盤からは接近しての速いコンビネーションで試合を支配した。9Rにはヒッティングでのカットもあったが、最終回までバスケスをロープ際、コーナーに詰めて連打を放つ展開が続き、116-112、116-113、115-113の3-0で判定勝利を収めた[40][41]

2007年10月11日に行われたWBC世界フライ級タイトルマッチにおける亀田大毅反則行為をめぐって、会長の金平はJBCから3か月間のクラブオーナーライセンス停止処分を受け[42]、協栄ジムには抗議電話が集中し[43]、2度目の防衛戦の調印式やルールミーティングでは、大竹重幸が会長代行を務めた[44]。またJBCは、その後初めて行われる世界戦となったこの試合で反則再発防止策をとった[* 1]

2007年11月4日、さいたまスーパーアリーナコミュニティアリーナで2位デンカオセーン・カオウィチットと対戦。JBCは反則再発防止策の1つとして試合開始の約30分前にリングを検査し、問題がなかったことを場内アナウンスで説明した[46]。初回にダウンを喫したが、4Rに左手親指を脱臼[47]したデンカオセーンの失速もあって後半にかけて盛り返した。7R、8Rにはバッティングでカットしながら12Rを戦い、113-113、114-112、112-115という1-1の判定で引き分け防衛を果たしたが、デンカオセーンのホールディングが12Rに減点されていなければ王座を明け渡していたという際どい試合でもあった[48]。この試合は選択試合として行われたが、後日WBAから指名試合と認定された。

2008年3月29日、幕張メッセで7位[* 2]山口真吾を迎えて3度目の防衛戦。序盤は山口にペースを握られ、3R開始早々にダウンを喫し、5Rにはバッティングでのカットもあったが、中盤以降に盛り返し、3-0での判定勝利となった[49]。この試合については、後に坂田自身「反省の多い試合だった」と語っている[50][51]


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