坂田三吉
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この項目では、将棋棋士について記述しています。ドカベンの登場人物の同名の人物については「坂田三吉 (ドカベン)」をご覧ください。
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坂田三.mw-parser-output .cjkext{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ 簡体中文 W3","ヒラギノ角ゴ 簡体中文","Hiragino Sans GB W3","Hiragino Sans GB","STHeiti SC","STHeitiSC-Medium","Microsoft YaHei","Droid Sans Fallback","Han-Nom Gothic","SimSun-ExtB","BabelStone Han","Nom Na Tong","WenQuanYi Zen Hei","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字","YOzFont","DFSongStd","HAN NOM A","Sun-ExtA","Code2000","HAN NOM B","Sun-ExtB","花園明朝 A Regular",HanaMinAX,"花園明朝 B Regular","花園明朝 C Regular","花園明朝 C",HanaMinBX,"花園明朝A","花園明朝B",HanaMinA,HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-A{font-family:"源ノ角ゴシック","Noto Sans CJK JP","STHeiti SC","STHeitiSC-Medium","Microsoft YaHei","BabelStone Han","Droid Sans Fallback","Adobe Heiti Std R","Adobe Heiti Std","Han-Nom Gothic","DFSongStd","WenQuanYi Zen Hei","HAN NOM A","Sun-ExtA","Code2000","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"FZKaiS-Extended","CJK統合漢字拡張A","花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-B{font-family:"SimSun-ExtB","HAN NOM B","Sun-ExtB","BabelStone Han","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"FZKaiS-Extended(SIP)","CJK統合漢字拡張B","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-C{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","CJK統合漢字拡張C",gw061889,"Sun-ExtB","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"和田研中丸ゴシック2004絵文字",WadaLabChuMaruGo2004Emoji,"和田研細丸ゴシック2004絵文字",WadaLabMaruGo2004Emoji,"BabelStone Han","FZKaiS-Extended(SIP)","UKai-ExtC","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-D{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","BabelStone Han","UCS-ALL-EXTD",gw936381,"花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"Sun-ExtB","FZKaiS-Extended(SIP)","花園明朝B",HanaMinB}.mw-parser-output .cjkext-E{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","UCS-ALL-EXTE",gw1289725,"花園明朝B","HanaMinB","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-F{font-family:"花園明朝 C Regular","花園明朝 C","UCS-ALL-EXTF","花園明朝B","HanaMinB","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-G{font-family:"UCS-ALL-EXTF","BabelStone Han"}.mw-parser-output .cjkext-stroke{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字","BabelStone Han","MingLiU","MingLiU_HKSCS",Code2000,"Sun-ExtA","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-radical{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ 簡体中文 W3","ヒラギノ角ゴ 簡体中文","Hiragino Sans GB W3","Hiragino Sans GB","BabelStone Han","Nom Na Tong","HAN NOM A","Sun-ExtA","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,"YOzFont","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004絵文字",Code2000,"花園明朝A","HanaMinA","FZKaiS-Extended"}.mw-parser-output .cjkext-ci{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","Droid Sans Fallback","Arial Unicode MS","BabelStone Han","DFSongStd","花園明朝 A Regular","花園明朝 A",HanaMinAX,Code2000,"CJK互換漢字","花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-cis{font-family:"HAN NOM B","CJK互換漢字補助","Sun-ExtB","花園明朝 B Regular","花園明朝 B",HanaMinBX,"花園明朝A",HanaMinA}.mw-parser-output .cjkext-20bb7{font-family:"源真ゴシック Regular","源ノ角ゴシック Normal","源ノ角ゴシック JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ Pro W3","ヒラギノ角ゴ Pro","Hiragino Kaku Gothic Pro","メイリオ","Meiryo UI","A-OTF 新ゴ Pr5 R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","小塚ゴシック Pro M","VL Pゴシック","Migu 1P","IPAmj明朝","BabelStone Han","HAN NOM B","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004絵文字","YOzFont","Sun-ExtB","花園明朝 B Regular",HanaMinBX}𠮷

阪田三𠮷
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 坂田三𠮷 贈名人・王将
昭和初期ごろの坂田三吉
名前坂田三𠮷
生年月日 (1870-07-01) 1870年7月1日
没年月日 (1946-07-23) 1946年7月23日(76歳没)
出身地堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市[1][2]
所属関西将棋研究会
将棋大成会(関西)
師匠小林東伯斎八段[注 1][2][3]小野五平十二世名人[注 2][4]
弟子藤内金吾星田啓三、高浜禎
段位八段

2012年12月22日現在
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坂田 三𠮷または阪田 三𠮷(さかた さんきち、1870年7月1日明治3年6月3日) - 1946年昭和21年)7月23日)は、明治から昭和初期の将棋棋士。贈名人王将[2]小林東伯斎八段門下[2]、もしくは小野五平十二世名人門下[4]大阪府堺市出身[2][1]については「坂田」と「阪田」の表記があり、一定しない(後述、読みは同じ)。なお「吉」の正確な表記は「?」[注 3][2]
生涯

堺県大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市堺区協和町)で出生[5]。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。

1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公し、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。

その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。

1891年(明治24年)頃、関根金次郎(当時三段または四段)と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。このことで坂田はプロの道を決意したとされる。なお、初手合わせは1892年(明治25年)・1893年(明治26年)・1895年(明治28年)という説[6]、1894年(明治27年)頃という説[7]もある。また、この対局は両者とも賭け将棋を否定しているが、賭け将棋であるとの意見もある[8]

また、これまで独学で将棋を学んでいた坂田は、関根を通じて初めて師と呼べる人物に出会う。関根が当時「大阪名人(関西名人)」と呼ばれていた小林東伯斎天野宗歩四天王の一人)に会った際に坂田との棋譜を見せたところ、小林は坂田の素質に驚き、自分に紹介するよう関根に頼んだ。関根の仲介で坂田と会った小林は、坂田の才能を褒め、さらに上達するための助言として大駒の使い方などを教えた。坂田は小林との出会いが大変励みになったと懐述しており、これをもって小林門下とすることもある[3]

1903年(明治36年)、四段格の坂田は、七段の関根と「香香角」の手合いで対戦する。香落ちの棋譜は残っており坂田の一勝一敗となっている[9]。坂田の語りを収録した著書『将棋哲学』では、「若いころで自分が四段か四段半のころ、七段の関根さんとの対局で千日手になり、自分(坂田)が攻め方だったため、関根から、関根側の勝ちと言われて、勝負を打ち切られた。天下の七段の関根が、自称四段・四段半の素人の自分に対して、男らしくない」「この敗戦の悔しさから、家内に、今日から本当の将棋指しになると宣言した」とある。この「千日手の攻め方打開のルールを知らずに敗れた」のは、棋譜が残っていない、関根角落ちの一番という説もある[9]

1906年(明治39年)4月22日、「五段半」の坂田は、八段の関根と大阪阿弥陀池和光寺境内の藤の茶屋で対局(関根の香落ち)をする。双方互角の勝負であったが、終盤坂田が千日手の当時のルール(攻め方による打開が必要)を知らず、無理に打開してペースが狂い惜敗したとされるが、上記の坂田著書『将棋哲学』の「四段のころに、千日手のルールをしらず、ルール違反で強制的に負けにさせられたことがある」という記述と一致しない。そのため、坂田が「坂田が千日手のルールを知らない」エピソードがあったのは、1903年(明治36年)の関根が角または香を落とした一番だという説もある[10][11])。坂田にとって「私を本物の将棋指しにしてくれた」一戦であった。以後、坂田は打倒関根を目標として貧困などの危機を乗り越えていく。北条秀司原作による戯曲『王将』では、この年(1906年・明治39年)に関根と初対戦したことになっており、千日手のため、審判の判定で坂田が反則負けにされたと描かれている。

1907年(明治40年)当時の三人の八段である関根金次郎井上義雄小菅剣之助の平手対局が神戸新聞により企画され、「六段」の坂田は神戸で小菅剣之助と対戦(小菅の香落ち)して勝つ。この頃には坂田の才能を見出す後援者にも恵まれ、1908年(明治41年)大阪朝日新聞嘱託となる。こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長していく。同1908年には、関根と「香角香」の手合で対戦する。

1910年(明治43年)7月、坂田を盟主とする関西将棋研究会が発足する。同時期に後援者の協力を得て七段への昇段を宣言する。もっともこれは自称であり、大阪朝日新聞紙上で「自分は七段の実力があるから自分で七段を認定する」と突如発表したものだった[12]。坂田は「自分で実力があると信じて名乗りをあげたのだから、もし異存があればいつ何時でも手合せに応ずる」と述べ、昇段に異議を唱えて挑戦してきた棋士を全て駒落ちで破っている。

1913年(大正2年)4月に初の東京行きを果たす。4月6日・7日に東京・築地倶楽部において催された歓迎対局で関根八段と対局(関根の香落ち)して勝利をする。この対局において坂田は『銀が泣いている』という言葉を残したとされる(泣き銀の一局)[注 4]。正式に七段として認められたのはこの時ともされている。4月9日には関根の弟子の土居市太郎(当時は六段)と平手で対局して敗れたものの、7月14日には大阪を訪れた関根と大阪朝日の主催で平手で対戦し、袖飛車を用いて勝つ。

1914年(大正3年)、大阪に出てきた関根と対戦し敗れる。

1915年(大正4年)、小野五平名人により八段昇段を許された。これ以降、坂田は小野門下を自称するようになった[4]。同年に関根と並ぶ東の実力者である井上義雄八段と対戦して勝つ。「泣き銀の一局」は一説にはこの対局のことであるともいう[注 5]

1917年(大正6年)に八段となり、柳沢保恵伯爵の後援の下で翌年にかけて関根と平手で6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎(七段)には敗れており、土居の八段昇段を許すこととなる。

1919年(大正8年)5月11日、木見金治郎の七段披露の席で大阪を訪れた土居と対戦し、阪田流向かい飛車を使用して勝利する。この対局は坂田が途中で角損をしており、「角損の一局」とも呼ばれる。

1920年(大正9年)、小野名人の90歳祝賀将棋大会で上京した際の、大崎熊雄七段との香落ち戦は、坂田の奇手「角頭歩突き」で有名な対局だが、この対局には敗れている[13]。同時期の東京での金易二郎七段との香落ち戦での、坂田が不利な局面で打った七一角は、夢でみた「天から降った角」と自身で語っており、「夢の名角」と呼ばれている[14]

1921年(大正10年)5月、小野名人の死去を受け、関根が「十三世名人」を襲位した。この時点では坂田も関根の名人襲位には賛成していたとされる。

この頃、坂田は眼病を患い、一時は失明の危機に陥る。

1925年(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、柳沢伯爵の賛同も得て「名人」を名乗る(なお、坂田が称したのは「名人」である[15]が、東京の名人と区別するために、現在では「関西名人」、「大阪名人」などと表記する者もいる)。この背景には、1924年(大正13年)の東京棋界再編で「東京将棋連盟」の結成に貢献した木見金治郎大崎熊雄金易二郎花田長太郎が褒賞として昇段し、それまで専業プロ棋士では坂田三吉、土居市太郎のみ[注 6]だった「八段」の棋士が一挙に増えたことに対する不満があったとされる[注 7]。このことは東京将棋連盟から名人僭称とみなされ、連盟を追放される原因となった。

報酬をめぐって大阪朝日との関係がこじれ、1933年(昭和8年)、嘱託の座を神田辰之助に奪われることになると、後援者の多くも神田を支持するようになり、坂田はますます孤立を深めた。この時期に星田啓三を内弟子に迎えている。

1935年(昭和10年)からの神田事件による将棋界の分裂が1936年(昭和12年)6月29日に収束後、従来より東京よりであった木見派のみならず神田派も将棋大成会(現在の日本将棋連盟の前身)に参加するようになり、坂田は将棋界で完全に孤立した。

坂田は復帰を目指し読売新聞や金易二郎に働きかけを行い、その結果1937年(昭和12年)に坂田は東京側と和解し将棋大成会に復帰することになる。同年2月に京都の南禅寺木村義雄八段と対局(「#南禅寺の決戦」、後述)、3月には天龍寺で花田長太郎八段と対局。いずれも「後手番、初手端歩突き」の奇策を取るが、連敗した。

復帰後、八段格として第2期名人戦挑戦者決定リーグ(八段リーグ)に参加し7勝8敗の成績をあげたが、それを最後に名人戦に参加せずに引退。引退後は大阪市東住吉区田辺の自宅にこもり、文字通りの隠遁生活であった。窮乏を知った木村より顧問の就任を打診されたが「いまさら木村が、なにいいまんね」と拒絶したという。家族によると、将棋を指すのが会社やクラブへの稽古将棋程度になってしまい、「本当の将棋が指したい」と折りたたみの将棋盤でひとり将棋をしていたという。

終戦直後、1946年(昭和21年)7月23日、大阪市東住吉区[16]の自宅で死去。食当たりでの急死であったという(少し傷んでいた鯨肉を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)。坂田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で写真もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。しかし没後まもなく製作された新国劇の演劇作品・北条秀司脚本『王将』が好評を得たため、坂田の名は将棋指しとして不朽なものとなった。


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