坂本藤良
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坂本 藤良(さかもと ふじよし、1926年11月5日 - 1986年9月15日)は、日本の経営学者、評論家。理論の底流にヒューマニズム。NHK教育テレビ「教養特集」収録スタジオにて 1962年5月
略歴

東京市下谷区[* 1](現、台東区)生まれ。旧制成蹊高等学校[* 2]の理科・文科を経て[* 3]、1951年、東京大学経済学部卒業。同年4月より大学院特別給付研究生。日本の正統派経営学の祖である、馬場敬治教授[* 4]の唯一の門下生となる。1954年の『経営学における原価理論-序説1』[* 5]に始まる一連の論文[* 6][* 7][* 8][* 9]でコスト論を展開し、国民所得からソシアル・コスト(公害等)を控除しなければ、真の意味での国民所得ではないのではないか、と示唆している。1956年、特別給付研究生修了。

1957年、慶應義塾大学商学部の設立に参画し、『経営通論』の講義を担当した[1]。同じく1957年、体系的に原価理論を著した『近代経営と原価理論』(有斐閣)を出版。この本の中で、日本では全く馴染みの無かった「スモッグ」という言葉を紹介している[2]。また、公害について、目に見える事象例を挙げた上で、その本質を捉えた記述を残している[* 10]

翌1958年、一般に向けて平易な文章で書かれた『経営学入門』(光文社)が爆発的に売れ[3]、広範な経営学ブームを巻き起こした。後に作家の井上ひさしが昭和33年を代表する本として取り上げている[* 11]。以後「経営学の神様」とよばれ[4]、講演・執筆等に八面六臂の活躍をし、多くの著書を残した。学界で期待されたが、複数の大学にて客員・非常勤で教鞭を執り[5]、日本大学顧問教授[6]を引き受けるも、産業界の寵児になるにおよび、学界を離れ、独立の経営学者として活躍した[3]。それまでの経営学が、学界内部の理論構成に終始しがちであったのに対し、より現実に即した経営理論を示し、日本企業の管理者層を啓蒙する役割を果たした[3]

池田・佐藤内閣で、経済審議会の専門委員[7]、および通産大臣の諮問機関である産業構造調査会の専門委員[7]を務めた。

NHK教育テレビ『経営ゼミナール[* 12]、同じく『現代の経営[* 13]に、レギュラー解説者として出演[8]本田宗一郎石橋正二郎井深大服部禮次郎土光敏夫らと毎回のテーマに沿って対談した[* 14]

1969年、周囲の反対を押し切って、家業の製薬会社を立て直そうとするが失敗。「紺屋の白袴」と激しく叩かれ、厳しい批判を浴びた[4]。のちの1974年、失敗の体験を「学者の責任」[9]として、『倒産学 - ゼロからの出発』に書いた。

1970年代初めより、環境問題に関しての翻訳・啓蒙書を手がけたが、社会に未だ危機感が薄かったこともあり、広く読まれることはなかった。

1986年、59歳で肺がんを患い、病床で最期まで『小栗上野介の生涯』を執筆した。これが絶筆となり、翌1987年に講談社から出版され、小栗再評価の端緒となった[* 15]。既刊の『坂本龍馬と海援隊』(講談社1985年)、『岩崎弥太郎の独創経営』(講談社1986年)と合わせたこの三部作は、歴史書でありながら、日本の近代経営のルーツを探究[10]したものであり、「日本における株式会社発生史」[11]を解き明かした、経済の書である。

東急百貨店取締役[5][7]、経済審議会委員[7]、産業構造調査会専門委員[7]、日本マンパワー社長[5][12]、日本リサーチセンター役員[5][7]等を歴任。
著書
単著

『近代経営と原価理論』
有斐閣 1957

『経営学入門 現代企業はどんな技能を必要とするか』(カッパ・ブックス)光文社 1958

『日本資本主義と経営技術』森山書店 1959

『現代経営学』中央経済社 1959

『経営学史』 (経営全書) ダイヤモンド社 1959

『経営の技術』有紀書房 1959

『経営の構造』有紀書房 1959

『経営の科学 系譜・用語リーディングズ』日本生産性本部 1960

『日本の会社 伸びる企業をズバリと予言する』光文社 1961

『日本の経営革新』毎日新聞社 1961

『ビジネスのあゆみ 日本経営100年史』文藝春秋新社 1961


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