坂本 朝一(さかもと ともかず、1917年3月28日 - 2003年12月31日[1])は、日本の放送人[1]。第12代日本放送協会(NHK)会長。「朝の連続テレビ小説」の生みの親として知られる。
来歴・人物(坂本猿冠者)の子として生まれる[2]。旧制明治中学校から早稲田大学文学部英文学専攻科に進学し、同校を卒業。
1939年にNHKに入局[1]。主にラジオドラマや演芸などの芸能番組を担当。1940年4月にはテレビ実験放送の公開番組として、日本初のテレビドラマである『夕餉前』を演出した[1]。戦後には『二十の扉』『私は誰でしょう』『向う三軒両隣り
』などを担当した[1]。テレビ本放送開始後は、『バス通り裏』や『事件記者』で連続テレビドラマの手法を確立し、「朝の連続テレビ小説」を企画。第1作『娘と私』や第6作『おはなはん』を手がけた[1]。
のち、専務理事、芸能局長、放送総局長、副会長を歴任[1]。1976年9月に、NHK会長の小野吉郎が辞任したことにともない、坂本は副会長から会長に昇格。内部職員初の会長就任であった[1]。1982年まで2期6年務めた。
1985年に国家公安委員会委員、1987年に国語審議会会長、1997年に横綱審議委員会委員長を務めた[1]。1990年、勲一等瑞宝章受章[1]。
2003年12月31日[1]、肝機能不全のため死去。86歳没。「お別れの会」での弔辞は大学の先輩である森繁久彌が読んだ。 坂本家の家業だった料亭・開花楼は、神田明神境内の崖の上に所在し、木造4階建てで、2階に120畳の大広間があった[3]。明神のご神体が縁結びの神・大国主命であることから結婚披露宴の会場としてよく利用された(島崎藤村などがここで結婚式を挙げた)[3]。場所柄東京大学関係者の利用も多かったという[3]。 店主は初代も2代目も(つまり、坂本朝一の父親も祖父も)坂本彦平といい、揃って芝居好きで自ら「坂本猿冠者」と名乗り、舞台付大広間で同好者たちと芸事を楽しんだという[4]。芸事好きの店主の計らいで、文学座の稽古場としても使われたこともあった[3]。荒木十畝、鳥居清忠らの画会(絵画の展示・販売会)など催し物の会場としても用いられた[3]。 また坂本朝一によれば、開花楼は「へなちょこ」という語を生んだ場所であるという[5]。1881年か1882年ごろ、朝一の祖父・初代彦平が酔狂な思いつきとして、遊びで明神の崖上の粘土を使って素焼きの猪口を作り、友人である出版人の山田風外
開花楼
著書
放送よもやま話(あずさ書房 1981年)
文庫版(文春文庫 1985年) ISBN 978-4167395018
放送つれづれ草(東京新聞出版局 1991年) ISBN 978-4808304126
脚注^ a b c d e f g h i j k 『坂本 朝一』 - コトバンク
^ 戌井市郎『芝居の道 文学座とともに六十年』芸団協出版部
^ a b c d e f 『東京?時記』小学館, 1988、p69-73, 「神田祭と神田っ子」坂本朝一
^ 『文藝春秋 第82巻』, 2004, p87
^ a b c 坂本朝一『放送よもやま話』1985年、文春文庫 pp.152-154「情報化社会」
^ 野崎左文/青木稔弥・佐々木亨・山本和明(校訂)『増補 私の見た明治文壇 2』平凡社東洋文庫、2007年 「昔の銀座と新橋芸者」[要ページ番号]
関連項目
東京都出身の人物一覧
表
話
編
歴
日本放送協会歴代会長
岩原謙三1926.8-1936.7
小森七郎1936.9-1943.5
下村宏1943.5-1945.4
大橋八郎1945.4-1946.2
高野岩三郎1946.4-1949.4
古垣鉄郎1949.5-1956.6
永田清1956.6-1957.11
野村秀雄1958.1-1960.10
阿部眞之助1960.10-1964.7
前田義徳1964.7-1973.7
小野吉郎1973.7-1976.9
坂本朝一1976.9-1982.7
川原正人1982.7-1988.7
池田芳蔵1988.7-1989.4
島桂次1989.4-1991.7
川口幹夫1991.7-1997.7
海老沢勝二1997.7-2005.1
橋本元一2005.1-2008.1
福地茂雄2008.1-2011.1