坂本堤弁護士一家殺害事件
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坂本堤弁護士一家殺害事件
場所 日本神奈川県横浜市磯子区
日付1989年平成元年)11月3日 - 11月4日
標的坂本堤と妻、息子
攻撃手段窒息
死亡者3人
犯人麻原彰晃率いるオウム真理教徒ら
岡崎一明村井秀夫新実智光早川紀代秀中川智正端本悟
動機教団を批判する弁護士の殺害
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坂本堤弁護士一家殺害事件(さかもとつつみべんごしいっかさつがいじけん)は、1989年平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士であった坂本堤(当時33歳)とその妻子合わせて3人を殺害した事件である[1][2]
概要坂本弁護士一家の碑(富山県魚津市別又谷山中)。現在は片貝山ノ守キャンプ場内に移設。長男の慰霊碑(長野県大町市
事件のきっかけ

神奈川県横浜市にある「横浜法律事務所」に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子からの紹介で[3]、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及し「オウム真理教被害者の会」を組織していた。9月、『サンデー毎日』で「オウム真理教の狂気」特集がスタートし、オウム批判が強まる中、坂本弁護士も取材を受けるようになった[4]

オウム真理教に対して、批判的な記事を書いていた『サンデー毎日』の出版を差し止めるべく、出版元である毎日新聞社本社の爆破計画があった。2トントラックに爆弾を搭載し、輪転機がある(はずの)パレスサイドビルディング地下階に突っ込んで爆発させれば、サンデー毎日の出版を停止できるという計画だった。爆弾は村井秀夫が作る予定であった[5]。しかし、トラックが地下に入れないことと、そもそもサンデー毎日がパレスサイドビルディング地下階の輪転機で印刷されているかが不明であったことにより、計画は暗礁に乗り上げた。

代替案として、直接爆弾を設置する計画があったが、早川紀代秀がオウム真理教のビラを千代田区一ツ橋の毎日新聞社に置いてきたため、証拠を残してしまうことから頓挫した[6]
殺害決定

10月26日、上祐史浩青山吉伸早川紀代秀は坂本のインタビューを撮影したTBS(当時の千代田分室)に抗議して放送を中止させる(『3時にあいましょう』のTBSビデオ問題)。インタビュービデオの中で坂本は、「信者の家族の苦しみが置き去りにされている」「宗教を利用したインチキ商法になっているのであれば断罪されるべき」「尊師に超能力で跳んだり透視するのを実演してほしいと頼んだが、それはできないとのことだった」「血のイニシエーションは詐欺」などと発言していた[7]

10月31日、上祐、青山、早川は横浜市にある坂本の法律事務所で訴訟回避に向けた交渉を行ったが、坂本は麻原のDNA培養物を高額で売りつける「DNAのイニシエーション」はインチキであり、京都大学が認めたなどと宣伝しているがそのような事実はなかったなどの指摘を行い、訴訟の意思を変えなかった。「信教の自由がある」という上祐に対し坂本は「人を不幸にする自由などない」と言って交渉は決裂する[8][9]。坂本はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。また被害者の会も「水中クンバカや空中浮揚を公開の場で行え」と要求してきた[4]

11月2日または3日頃、麻原彰晃はオウム真理教幹部である村井秀夫・早川紀代秀・岡ア一明新実智光中川智正をサティアンビル(後の第1サティアン)に集め、右手の親指と人差し指で輪を作ってはじく「ポアのサイン」をして、「もう今の世の中は汚れきっている。もうヴァジラヤーナを取り入れていくしかないんだから、お前たちも覚悟しろよ」「今ポアをしなければいけない問題となる人物はだれと思う」と問い詰めた[10]

当初は『サンデー毎日』の編集長を務めていた牧太郎を、帰宅途中に抑え込み殺害するという計画であったが、牧は多忙ゆえ帰宅時間が分からず襲いにくいために計画は立ち消えとなった。そこで麻原は「牧太郎ではない。坂本弁護士である」と言って突然標的を坂本に変更した[11]。坂本は『サンデー毎日』のネタ元とされていた[12]。一方で早川は、牧でなくいきなり坂本の名前が出たと証言している[13]

そして麻原は「坂本弁護士をポアするんだよ」「ポアするんだよポア」「話しても無駄だから、ポアするんだ」などと言い、坂本を塩化カリウムで殺害するよう指示した(塩化カリウムは中川が以前勤務していた大阪鉄道病院から盗んだほか、村井も独自入手していた)[4][14][10][15]。また、腕力のある人材が欲しくなったのでメンバーに端本悟も加え、端本には早川から「坂本堤という弁護士をただちにポアすることとなった」と伝えられた[16][17]

「坂本弁護士の活動は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の衆議院議員総選挙や、今後の教団の発展の障害となる」と考えたことが動機とされる[4]。麻原の検察官面前調書によると、「自分(麻原)への誹謗中傷はいいが、真理への妨害は許されないため、坂本弁護士が悪業を積む前にポアした」と語っている[18]

11月3日、熊本県在住の在家信徒の弁護士から坂本の住所を電話で聞き出し、9時頃に実行犯らは村井の専用送迎車だった日産・ブルーバード[19]いすゞ・ビッグホーンに分乗し出発した。途中で杉並の教団マンション(カーサ上荻[20])にあった選対に向かい、2台の交信用の無線機を林泰男が用意し、ついでにかつらなどで変装した。村井は長髪、新実はアフロヘア、岡アは七三分けに眼鏡であったという。その後新宿でスーツなどを買い、横浜へ向かった[16]
横浜へ

予定では、坂本が通勤で利用する横浜市磯子区洋光台駅付近で待ち伏せし、車に連れ込み塩化カリウム注射して殺害し、遺体をそのまま運び去る計画であった。しかしこの日は祝日文化の日)であることを中川以外忘れていたため、坂本は現れなかった。中川がそのことを指摘すると、新実は中川を指さして「かしこい」と褒めた。このため、一行は同区にある坂本の自宅に向かった[21]

22時、岡アが坂本宅に向かうとドアに鍵がかかっていないことが判明した。早川はこれを麻原に電話連絡し、同時に坂本の「付属物[22]」すなわち家族をどうするかが検討された。麻原は「ほほう、そうか。じゃ、入ればいいじゃないか。」「(家族を巻き添えにすることは)しょうがないんじゃないか。一緒にやるしかないだろう。」と一家全員の殺害を命令した[4][10]。麻原は検事調書の中でこの時の心境を「私は一瞬、子どものことが頭に浮かびましたが、私も小さいときから親から離れて苦労しており、子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い、殺害を許可した」と語っている[23]
決行

念のため早川と新実が日産・ブルーバード洋光台駅に向かい、他の4人は坂本宅近くに停めたビッグホーン内で待機して最終電車まで待ったが、坂本は現れず家にいると判断、翌11月4日3時頃に自宅に侵入し、寝ている坂本一家を発見した。

抵抗が激しく中川が手間取ったため誰にも塩化カリウムをしっかり打てず、窒息させて一家全員を殺害した[4][24][25]
坂本

端本に馬乗りされ、顎を6、7回殴られた後、岡アに首、早川に足を押さえられた。実行犯らに「金か、金ならやる」と言った[26]。中川から尻に塩化カリウムを打たれたが筋肉注射だったため効果が無く、2、3回ほどやり直したが針が曲がった。その後窒息死[27]
坂本の妻(都子)

新実に馬乗りされる、上半身を蹴られるなどの暴行を受け、端本に腹を蹴り飛ばされ、膝落としをされた後、村井、早川、中川に首を絞められる。中川から塩化カリウムも打たれた。「子どもだけは」と命乞いをしたり、村井の指を噛んだりと抵抗したが、窒息死[27]
坂本の長男(当時1歳)

泣き出したため、中川と新実に鼻口を押さえつけられ、窒息死。検察側は顔と腹を殴られたとしているが、弁護側は否定した[28]
隠蔽

遺体はビッグホーンで上九一色村へ運ばれた。11月4日7時頃、富士山総本部に到着した一行を麻原と石井久子が出迎え、麻原は「よくやった、ごくろう」と上機嫌に述べた[29]。その後の説法で麻原は「今日は午前4時前から、アーモンドの修法を行った」とし、欲について説いた[29]。説法後、麻原は「遺体はドラム缶に詰めて遠くの山に埋め、車は海に廃棄せよ」と幹部らに指示した[29]

同日午前中、一行はブルーバード、ビッグホーン、マツダ・ボンゴの3台で出発[29]。まず、同日午後に長男の遺体を長野県大町市日向山(関電トンネル電気バス扇沢駅近くの湿地帯)に埋めた[29]。その後、一行は新潟県西頸城郡能生町(現:糸魚川市)のドライブイン駐車場で仮眠をとり、翌5日、新潟県西頸城郡名立町(現:上越市)の大毛無山に坂本の遺体を埋めた[29]。翌6日、妻の遺体は富山県魚津市別又の僧ヶ岳中腹(林道別又僧ヶ岳線脇)に埋めた[29]


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