坂本勇人
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、読売ジャイアンツ所属の内野手について記述しています。読売ジャイアンツ所属の捕手の同名の人物については「坂本勇人 (捕手)」をご覧ください。

漫画家の「坂本ハヤト」とは別人です。

坂本 勇人読売ジャイアンツ #6
2016年 明治神宮野球場
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県伊丹市
生年月日 (1988-12-14) 1988年12月14日(35歳)
身長
体重186 cm
86 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手三塁手
プロ入り2006年 高校生ドラフト1巡目
初出場2007年7月12日
年俸6億円(2024年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


光星学院高等学校

読売ジャイアンツ (2007 - )

国際大会
代表チーム 日本
五輪2021年
WBC2013年2017年
プレミア122015年2019年
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
日本
WBSCプレミア12
2015
2019
オリンピック
2020野球

坂本 勇人(さかもと はやと、1988年12月14日 - )は、兵庫県伊丹市出身[2]プロ野球選手内野手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。

2021年開催の東京オリンピック 野球 金メダリスト。

2016年にセントラル・リーグ遊撃手としては史上初となる首位打者を獲得。2020年には右打者としては最年少となる31歳10か月で通算2000本安打NPB史上53人目)を達成した[3][4]
経歴
プロ入り前

小学1年生から野球を始める。昆陽里タイガースでは投手として、捕手の田中将大とバッテリーを組んでいた[5]伊丹市立松崎中学校時代はリトルシニアの伊丹シニアに所属[6][7]八戸市光星学院高等学校に進学し、1年生時の秋からショートのレギュラーの座を掴み[8]第78回選抜高等学校野球大会にも出場。チームは1回戦で敗退したものの、自身は3安打を記録[9]。高校通算39本塁打[10]

2006年9月25日に行われた高校生ドラフト会議にて、堂上直倫を抽選で外した読売ジャイアンツから1巡目指名を受け[11]、11月5日に契約金8000万円・年俸650万円で契約(金額は推定)した[12]。背番号は61。これは200「6」年の高校生ドラフト「1」位に由来している[13]
巨人時代

2007年、二軍で77試合に出場して302打数81安打、5本塁打、28打点、打率.268の成績を残した。7月に一軍に初めて昇格し、7月12日の阪神タイガース戦で一軍初出場(代走)。9月6日には延長戦となった対中日ドラゴンズ戦に代打で出場、初安打を記録[14]。同時に決勝点となるプロ入り初打点も記録した。

2008年、巨人では松井秀喜以来の10代での開幕スタメン入り(8番・二塁手)を果たす。4月6日の対阪神戦において一軍での初本塁打を満塁弾で記録した[15]。巨人で初本塁打が満塁弾となったのは1983年の駒田徳広以来25年ぶりのことだった[15]。19歳3か月での満塁弾というセ・リーグ最年少記録を打ち立てた[15]。開幕戦で二岡智宏が負傷した影響もありその後は遊撃手としてスタメン出場を続けたが、夏場には打率が2割2分台にまでさがり、代打を出されることも増えたものの、二岡の復帰後も遊撃手の位置を譲ることはなく全試合スタメン出場を果たした。打率.257、8本塁打、43打点の成績を残した。高卒2年目での全試合スタメンは中西太清原和博に続いて史上3人目(セ・リーグでは初)。オールスターゲームにも初出場し、第2戦で初安打を記録。埼玉西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では西口文也から本塁打を放つ。10代での日本シリーズ本塁打は当時西武だった清原以来22年ぶり。坂本自身は日本シリーズでは打率1割台と不振でチームも日本一を逃したが、前述の日本シリーズでも本塁打を放つなど、存在感を示し、大きく成長した1年となった。オープン戦・公式戦・オールスター戦・クライマックスシリーズ・日本シリーズの172試合全てに出場した。新人王は同僚である山口鉄也に譲ったが(坂本は次点)、巨人では高橋由伸以来10年ぶりにセ・リーグ会長特別表彰(新人選手特別賞)を受賞した。

2009年、8番・遊撃手として2年連続での開幕スタメン出場。4月は主に下位打線での出場だったが、5月2日の対阪神戦では藤川球児からの決勝弾を含む1試合2本塁打を放つ[16]など4割近い打率をキープする好調ぶりを受け、5月6日以降は1番打者として定着[17]。しかし7月に腰痛を発症、強行出場し続けるも打率は低迷の一途を辿り、球宴直前の7月20日からの対横浜ベイスターズ戦3連戦を欠場した[18]。これで前年の開幕戦から続いていた連続試合出場記録は226試合で途切れた。最終的に目標だった20本塁打には到達しなかったものの、4月以降一度も3割を切ることなく最終的に打率.306(リーグ4位)を記録。高卒3年目以内の3割到達は史上11人目(球団では川上哲治千葉茂以来3人目)の快挙。青木宣親トニ・ブランコに並び最多得点を記録し、自身初となるベストナインに選出された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:250 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef