坂本九
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この項目では、歌手について説明しています。小惑星については「坂本九 (小惑星)」をご覧ください。

「九ちゃん」はこの項目へ転送されています。かつて日本テレビで放送されていた坂本九の冠番組については「九ちゃん!」をご覧ください。

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1961年の写真
基本情報
出生名坂本(さかもと) 九(ひさし)
別名大島(おおしま) 九(ひさし)(本名)
生誕1941年12月10日
出身地 日本 神奈川県川崎市川崎区
死没 (1985-08-12) 1985年8月12日(43歳没)
日本 御巣鷹の尾根
ジャンルライトジャズ
ロックンロール
ロカビリー
ポップス
歌謡曲
職業歌手俳優タレント司会者
担当楽器ボーカル
ギター
活動期間1958年 - 1985年
レーベル日本ビクター(1959年)
東芝レコード・エキスプレス(1960年 - 1984年)
ファンハウス(1985年)
共同作業者ザ・ドリフターズ
ダニー飯田とパラダイス・キング
公式サイト ⇒www.sakamoto-kyu.com

坂本 九(さかもと きゅう、出生名:さかもと ひさし、本名:大島 九(おおしま ひさし)、1941年昭和16年)12月10日 - 1985年(昭和60年)8月12日[1])は、日本の歌手俳優タレント司会者神奈川県川崎市川崎区出身。愛称は九ちゃん。

妻は女優柏木由紀子。柏木との間に娘が2人おり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子。実祖父は茨城県新治郡田伏村(のち佐賀村→出島村→霞ヶ浦町、現:かすみがうら市)出身の漁師坂本金吉[注 1]。またサックス奏者の阿部薫は甥(姉の息子)。

上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」等数多くのヒット曲を出し、全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した[2]。また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など多岐に渡り活動していた。
人物・来歴
少年時代

川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生[1]。9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。また、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。少年時代の坂本(左)と母・いく(1951年)

第二次世界大戦中に幼少期を送り、戦争中は母の実家のある現在の茨城県笠間市疎開した。また川崎在住時代、松あきら一家が坂本家の近所に転居・在住していた時期があり、坂本は松とよく遊んでいたという。

戦争中の1943年10月26日火曜日)に発生した常磐線土浦駅列車衝突事故で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、「笠間稲荷神社の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる[1]。そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった[注 2][要出典]。

高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島になる。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり[1]、右に出る物が他にいなかったと言われるほど、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。
バンド時代

高校に上がると、当時不良の音楽で、一部の最も流行に敏感な若者たちに流行り始めていたロックン・ロール(当時は総じてロカビリーと言われていた)にさらに熱を上げ、立川の米軍基地で初めて人前で歌う。その時に歌ったのがエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグリトル・リチャードの「Send me Some Lovin'」だった。思春期の坂本(右)と姉・八千代(1956年)

1958年5月、日本大学高等学校[注 3]在学中にバンド・ボーイを経て、当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、のちのザ・ドリフターズ)に加入[3]し、ボーカルギターを担当。8月26日にはロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞する[1]。半年後(11月)芸能界の苦しさも経験し、母親の反対を押し切って入った芸能界が、どうも間違いだったと思い始めていた坂本は、学校を休学して芸能活動をしていたので、「芸能界を一旦休業して学業に専念する」と引退してしまった。しかし渡辺美佐の妹である曲直瀬信子は、坂本家まで通い、坂本と母親とを強く説得。そして初代ドリフターズのリーダー岸部清をも説得し、事実上の引き抜きという形で坂本はドリフターズを脱退。12月に水原弘の抜けたダニー飯田とパラダイス・キングの一員[1]としてビクターレコードと契約。1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたが[1]、ヒットしなかった[4]

無名時代、平尾昌章ミッキー・カーチス山下敬二郎などが出演した、日劇ウエスタンカーニバルに事務所の意向を無視して無理やり出演。


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