坂崎一彦
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坂崎 一彦1956年撮影
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府豊中市
生年月日 (1938-01-05) 1938年1月5日
没年月日 (2014-01-28) 2014年1月28日(76歳没)
身長
体重176 cm
77 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1956年
初出場1956年3月21日
最終出場1967年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


浪華商業高等学校

読売ジャイアンツ (1956 - 1964)

東映フライヤーズ (1965 - 1967)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

坂崎 一彦(さかざき かずひこ、1938年1月5日 - 2014年1月28日)は、大阪府豊中市[1]出身のプロ野球選手外野手)。
経歴
プロ入りまで

1953年浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)に入学。投手から野手に転向し、2年生の1954年右翼手として春の選抜に出場する[1]。2回戦でこの大会に優勝した飯田長姫高エース光沢毅に抑えられ敗退。翌1955年春の選抜では「4番打者・中堅手」として出場。チームは順調に勝ち上がり、決勝戦で桐生高校と対戦。桐生高校監督の稲川東一郎は坂崎に対して勝負を避ける選択を取る。坂崎は2打席敬遠されたが、第3打席に桐生高エースの今泉喜一郎は勝負し、その打席で2点本塁打を放つ。結局、浪華商は延長11回にサヨナラ勝ちして、18年ぶり2回目の優勝を飾った。この大会での坂崎の成績は15打数9安打、打率.600、2本塁打、8敬遠であったが、その打棒は新聞に「坂崎大明神」と書かれるほどであった[2][3]。後年、坂崎は「桐生は普通にやっても強いチームだった。敬遠に対して怒るような気持ちは全くない。ただ、妙な作戦を取るものだとは思った。自分の後ろを打っている山本八郎もよく打っていたからね。」と語っている。同年の夏の甲子園にも出場するが、1回戦で前岡勤也を擁する新宮高に敗れ、春夏連覇はならなかった。その後は高校日本代表としてハワイ遠征のメンバーに選出された。チームメートに谷本隆路、広島尚保の両投手、山本八郎、勝浦将元がおり、谷本以外はプロ入りしている。
現役時代

1956年巨人に入団[1]。パワフルな打撃で入団1年目から86試合に出場し[4]、外野手の控えとなるが、身体が硬いために内角の速球に付いていけずに追い込まれ、高めのボールに手を出して三振するパターンが多く低打率にあえいだ[5]打法をコンパクトなフォームに変え[2]、3年目の1958年に中堅手、右翼手として78試合に先発出場。肩も強く、同年は10補殺を記録している。レギュラーに定着し、初めてオールスターゲームに出場する。同年の西鉄との日本シリーズでは全7試合に先発、19打数4安打、2打点を記録した。1959年には3番、5番打者を務め、打率.284(リーグ4位)、15本塁打、64打点を記録、ベストナインを受賞した。4番打者としても8試合に起用されている。同年の天覧試合にも出場し、5回裏に長嶋茂雄に続く連続本塁打を放っている。南海との日本シリーズでは4連敗を喫するが、第3戦では9回裏に杉浦忠から同点本塁打を放つなど、16打数5安打、2打点と気を吐いた。1960年は打率.202と低迷しレギュラーを奪われるが、1961年から1963年にかけては長嶋茂雄王貞治クリーンナップを組んで5番を打つ。1961年の南海との日本シリーズは不振が続いたが、最終第6戦の延長10回にジョー・スタンカから日本一を決める決勝適時打を放った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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