坂口征二
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坂口 征二
プロフィール
リングネーム坂口 征二
ビッグ・サカ
ジャイアント・サカ
マイティ・サカ
セイジ・サカグチ
本名坂口 征二
ニックネーム世界の荒鷲
身長196cm
[1]
体重125kg [1] - 130kg[2]
誕生日 (1942-02-17) 1942年2月17日(82歳)
出身地 日本 福岡県久留米市
スポーツ歴柔道
トレーナーカール・ゴッチ
吉村道明
デビュー1967年8月5日
引退1990年3月15日
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坂口征二

基本情報
日本
身長194cm
体重108kg
選手情報
階級男子80kg超級
コーチ神永昭夫
引退1967年
JudoInside.comの詳細情報

獲得メダル

日本
柔道
世界柔道選手権
1965 リオデジャネイロ80kg超級


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坂口 征二(さかぐち せいじ、1942年2月17日 - )は、昭和期に活躍した日本プロレスラー柔道家福岡県久留米市出身。世界の荒鷲と呼ばれた。長男は格闘家・元プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優坂口憲二
来歴・人物
柔道時代

受験に失敗し、一年高校浪人して久留米市立南筑高校に入学。1960年柔道三段を取得[3]。高校卒業後、明治大学に進学。柔道部で神永昭夫の指導を受ける。1963年10月、バーデン=バーデンでのIOC総会で柔道の1968年メキシコシティーオリンピックからの除外が決定[4]国際柔道連盟(IJF)はIOCに再考を促す。坂口はその長身を生かし、1964年東京オリンピック前には「仮想ヘーシンク」として、神永の稽古相手を務めた。

明治大学卒業後、旭化成工業(のちの旭化成)に入社し、1965年全日本柔道選手権で優勝[5]。その年のリオデジャネイロでの1965年世界柔道選手権大会に日本代表として出場した。東京オリンピックで失った日本柔道の威信回復のため、アントン・ヘーシンクに対しパワーや体格でも引けをとらない日本の大型強豪選手のひとりとして、松永満雄松阪猛らとともに雪辱を期待されたが、終始ヘーシンクをパワーで圧倒した松永(銀メダル)とともに互角に戦いながらも今一歩のところまで追いつめながらの優勢負け(銅メダル)となり雪辱はかなわなかった。なお、この日本人選手との大苦戦を経ての優勝以降、ヘーシンクは世界タイトルのかかった国際試合に出てくることはなかった。10月、マドリードでのIOC総会で1972年夏季オリンピック(のちのミュンヘンオリンピック)からの柔道の再採用が決定するが、1968年メキシコシティーオリンピックでの柔道の除外が再決定[4]。それを知り、ショックを受ける[6]

その翌年1966年、『柔道大事典』によると、柔道六段を取得[3]。一方で1966年より後の他の資料では柔道五段としているものもある [5][7]1966年全日本柔道選手権で優勝を逃したこともあり、その後に日本プロレス関係者との会見でプロレス入りを誘われたため、プロレス入りを決意する。
プロレス転向後

1967年、旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。2月17日(25歳の誕生日)に赤坂ホテルニューオータニにて入団発表を行い、同夜にハワイでの特訓に出発した[1]

ほどなくしてアメリカ合衆国本土への武者修行を敢行、デビュー翌月の9月20日にはロサンゼルスにてカール・ゴッチを相手に時間切れ引き分け[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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