坂口弘
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実業家の「坂口宏」とは別人です。

坂口 弘
生年 (1946-11-12) 1946年11月12日(77歳)
生地千葉県
思想毛沢東思想
活動山岳ベース事件
あさま山荘事件ほか
所属(「警鐘」グループ→)
(日共左派神奈川県委→)
日共革左神奈川県委→)
連合赤軍→)
日共革左神奈川県委→)
(坂口派→)
無所属
投獄東京拘置所[1]
裁判死刑(上告棄却)
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坂口 弘(さかぐち ひろし、1946年11月12日 - )は、日本の新左翼活動家、元連合赤軍中央委員会書記長(連合赤軍のナンバー3)、歌人テロリスト。確定死刑囚
経歴
学生運動

千葉県富津市出身。中学1年の時に父親を病気で亡くす。子供の頃は日本共産党の動向に関心を持ち、60年安保においては民主社会党を支持していた[2]

千葉県立木更津高等学校卒業後、1965年4月に東京水産大学水産学部増殖学科(現東京海洋大学海洋科学部)に入学、水泳部に所属する。同部に所属していた川島豪に近づくためだった[2]。当時4年生で自治会で後援会費闘争を行っていた川島を慕うようになる。その後、日韓条約反対闘争に参加し初めての集会とデモを経験。更にこの年の夏に課外実習で水産労働者の劣悪な労働状態に接し、労働運動に人生を捧げようと決意する。1966年4月、同年水産大学を卒業した川島が元社学同ML派幹部のM・Kと共に労働運動を重視した「警鐘」グループを結成すると、大学を中退し「警鐘」に加わることを望むが、川島の指示で大学に残り自治会活動を続けることになる(「警鐘」は学生をやめ労働者になることを加盟の条件にしていた)。しかし、一刻も早く労働運動に加わりたいとの思いから坂口の大学での活動は滞りがちになり、後に川島の後輩であることから自治会の委員長に就任するもほとんど活動を行わず、結局1967年6月に大学を中退する。
左翼運動に参加

大学中退後、大田区の印刷工場に就職し、「警鐘」に加盟すると共に労働運動に従事する。この時代に川島豪によって、「警鐘」メンバーの永田洋子と一度「お見合い」をさせられたが、双方とも即座に断った[3]1968年3月、「警鐘」が日本共産党を除名された親中国派の結成した日本共産党左派神奈川県委員会(神奈川左派)に合流すると、坂口も神奈川左派の党員となり(但し、川島に自治会委員長時代に自治会活動をほとんどしていなかったことを咎められ、党員に承認されるのが他の「警鐘」メンバーよりも遅れた)、1969年4月に川島、M・Kらによって日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が立ち上げられるとこれに加わる。同年9月の愛知揆一外務大臣ソ連アメリカ訪問阻止の羽田空港突入闘争に隊長として参加、海を泳ぎ滑走路に入り火炎瓶を投げ逮捕されるも保釈で出獄。求刑懲役7年が出たことに動揺[注釈 1]し、京浜安保共闘にも加わっていた永田洋子だったら7年待ってくれるとの想いで永田に求婚して事実婚となる。
革命活動

その後上赤塚交番襲撃事件の立案、真岡銃砲店襲撃事件を機に地下に潜伏。革左人民革命軍と赤軍派中央軍を合体した統合司令部を設置し、統一赤軍を結成。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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